原水禁大会パンフ
2002年大会パンフ

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  「原水禁運動とは何か」 
原水禁国民会議議長 岩松 繁俊

  原爆被爆の体験 原水禁運動の根拠 アメリカの原爆投下の戦争責任 日本が犯した戦争犯罪 日本人における「加害」と「被害」

原爆被爆の体験

 あの瞬間! わたしは判断がつかなかった。目の高さより上の位置、しかもすぐそこで猛烈な閃光! こんな爆弾はない。工場内で電気系統のスパークか? 次の瞬間、スレートぶきの屋根と壁、窓ガラスが青白く光りながら粉々になって飛んできた。
 ここで初めて、あ、空襲だ! と認識。目と耳を両手でふさいで旋盤の手前にうずくまるのでした。鉄片、ガラス片、電線が飛ぶ。
 第二波攻撃を心配して、すぐ工場を離れました。先ほどまで明るかった空が無気味な暗闇に急変。工場の裏手のコンクリート塀も、その向こうの民家もない。被害は工場だけではない。長崎全体が闇に包まれている。いままでになかった超爆弾!
 多数の男女の群れが一目散に工場の裏手の丘に向かって逃げています。見ると、みな血だらけ、灰だらけ。さらに、皮膚がボロぎれのようにはがれて垂れさがり、あるいは顔が黒焦げに焼かれてふくれあがり、あるいは鉄片が腹などにつきささって歩けなくなっています。さらに進むと、痛ましい死体があちこちに倒れ、傷者の惨状も出会う人ごとに異なり筆舌に尽くせません。
 友人とともに道ノ尾(注・市内の地名)の田んぼの中の一軒の医院に立ち寄ったとき、すでに多くの被爆者が手当を受けようと集まっていました。重傷者はあぜ道などに倒れています。わたしは奇蹟的に無傷なので、友人の手当が済むまで、ガラス片の飛び散った縁側に一人腰を下ろして待っていました。突然、若い看護婦が庭先に駆け込んできて、わたしが腰かけていることも知らず、顔を覆って激しく泣き始めました。衝撃にたえられずひとり離れて慟哭し始めた看護婦のこの姿にわたしは強く心を打たれました。
 地獄さながらの被爆地で数時間さまよったのち、折よく近くに止まった救援列車に乗り込みました。列車はいくつかの病院を求めて北上しました。列車内には瀕死の犠牲者が多数(ゆか)に横たわっていました。
 諫早(いさはや)駅に列車が到着したとき、わたしは友人とともに下車しました。そのときの状況もいまなお忘れることができません。ホームには長崎の戦災者に関する連絡をうけて駆けつけた婦人会の人たち多数が列車の到着を待ち受けていたのです。
 列車から現れた戦災者たちの姿を見た瞬間、そのあまりの無惨さに、婦人たちは一斉に大声あげて泣きだしました。この世のものと思えぬ、変わり果てた姿にたえられなかったのです。

原水禁運動の根拠

 先には看護婦が庭に駆け込んで泣き崩れ、いまは駅のホームで婦人たちが大声あげて泣いた。被爆者をじかに目撃した「非被爆者」たちのこの反応こそ、原水禁・反核運動の「根拠」であり、「根源」であるというべきです。ごく一部の人を除いて、ほとんどの人がこのときはこの残虐兵器を原子爆弾だとは知りませんでしたが、名称や物理的原理はともあれ、広島・長崎で被爆した人たちすべて(日本人に限らず、強制連行・強制労働を課された韓国・朝鮮、中国のひとたちやインドネシア人、オランダ人、イギリス人などの捕虜の人たちを含む)が言語に絶する苛酷な被害にのたうちまわったのみならず、これら被爆体験者をじかに目撃した「非体験者」が衝撃にたえられず慟哭したという事実こそ、この残虐なジェノサイド兵器への怒りと悲嘆と絶望ならびに反戦・平和への熱望という反応が「普遍的」であることの客観的証明です。

アメリカの原爆投下の戦争責任

 脆弱きわまりない戦力しか残っていなかった降伏直前の日本に、アメリカは二個も残虐な原爆を投下したのです。原爆投下を決定したのは、戦略指揮の軍部首脳ではなく、ワシントンの文民政治家とマンハッタン計画指導者でした。
アメリカの日本に対する原爆投下は、明らかに反人道的虐殺行為であり、戦争犯罪です。
しかし、今日にいたるまで、アメリカ人の多くは、広島・長崎への原爆投下を戦争犯罪とは認めず、謝罪を拒んでいます。なぜでしょうか。それは、日本が先に国際法を破って、真珠湾奇襲や捕虜虐待などの戦争犯罪を犯したからだというのです。

日本が犯した戦争犯罪

 たしかに日本は、原爆被爆するまでに、多くの戦争犯罪を犯してきました。日本の法律家でも、日本に招爆責任があると率直に認めています。
 しかし日本の戦争責任は、ただアメリカに対してだけあるのではありません。日本への原爆投下の報に接したアジアの民衆は「モア・ヒロシマ! モア・ナガサキ!」と絶叫しました。
 そのときから四三年後の一九八八年、マレーシアのモリーン・ヨウ女史と会う機会があったので、日本軍占領時代の痛ましい体験を持つお年寄りに被占領体験を書いてもらってほしいと依頼しました。やがて送られてきた女史からの返書に、わたしは衝撃を受けました。「わたしが依頼したとき、お年寄りたちはみな泣き崩れ、いまでも家族を殺した日本人を許せない、と叫びました。原爆はわたしたちを救ったのだ、というのです。」

日本人における「加害」と「被害」

 敗戦後、わたしは天皇制絶対主義日本の思想・教育・政治の省察とわたし自身の自己変革を模索しながら、日本人における「加害」と「被害」との関係を明らかにするためには、まず天皇制支配層と民衆とを階層的に分離することが必要だと考えました。天皇制支配層の加害には垂直的と水平的の二重構造がありますが、民衆については、天皇制支配層による「被害者」であることによって「加害者」となったという独自の事情があります。みずからの生命を「鴻毛(こうもう)よりも軽し」と天皇に捧げることを通してアジアの民衆への冷酷な加害者となりました。この認識は民衆の加害者性を根源までさかのぼって反省するために重要です。民衆が被害者であることには、もう一つ、戦争による被害者(例・原爆被爆)という意味があります。
 日本の民衆にとっての原水禁運動は、原爆による被害の言語に絶する苛酷さに対する絶対否定の普遍的心情に端を発しつつ、アメリカの原爆投下を招来した日本帝国主義の侵略責任・戦争責任を謙虚誠実に自己批判し謝罪する実践にあると言わねばなりません。
 一九八二年アメリカの科学雑誌に発表したわたしの論文「戦争犯罪の背景」は、米国の良心的な学者・思想家たちに好評でした。一九九五年平和団体「ピースアクション」に招待されて講演したとき、わたしは日本の戦争犯罪と米国の戦争犯罪の両者を厳しく批判しました。これは「これまで米国に来た被爆者から多くの体験談は聞いたけれど、戦争責任批判と被爆体験とを結合した論理は初めて聞きました」、と大いに支持されました。
 ところで、原水禁運動はただ核兵器廃絶だけを目的とした運動ではありません。原発・再処理施設を含む核燃料サイクルは、長崎に投下されたプルトニウムの製造装置であり、原発増設をやめない日本は、世界から核兵器保有の疑惑を持たれています。被爆国日本の核廃絶の訴えは、世界では信用されていないのです。

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