原水禁大会
2003.7.23 

出典: ユタ州政府のページより

核実験と風下住民

ジャネット・バートン・シーグミラー
(吉田美香訳)

アイアン郡の歴史

アジアでの戦争のため、米国は、太平洋での核実験について再検討し、米国本土に実験の場所を探すこととなった。朝鮮半島で紛争が起きた結果、核兵器の優位性を維持して行くために、太平洋で行うよりも安上がりになる本土での核実験が正当化されたのである。こうしてラスベガスの北に位置するネバダの用地が選ばれた。その選択理由には、人口密度の低さ、好都合な気象条件(人口の多い西海岸から吹く東寄りの卓越風)、有利な地理的条件−−政府管理化にある何百マイルも続く台地−−があげられる。1951年1月27日、フレンチマン・フラット上空で一機の飛行機より投下され爆発した威力1キロトンの核爆弾によりネバダでの大気圏核実験の幕が開かれることとなった[TNT火薬に換算して1kt分の意。広島は16kt]。

1951年、最初のきのこ雲が西の空に立ち上り北東に流されて行ったその時、核実験のことを知っていた者、気にかけていた者はアイアン郡の住民の中には比較的少なかった。しかし、ある意味でその雲はユタ州南部とネバダ州上空に今も居座り続けていると言える。そこに住む住民達はいまだ日々、その雲が残した目に見えぬ力に悩まされている。ユタ州南西部地域に住む人は誰も皆、ガンに侵された人、奇形児を出産した人、そして愛する人の死や経済的損失により苦しみ続ける人、といった不幸に見舞われた人を自分のすぐ隣や近所で必ずと言っていいほど見てきている。

米・原子力委員会の報道発表は、核実験は「十分な安全性を確保した上で」実施されると保証した。ネバダ州南部、ユタ州南部の風下住人達は当初その約束を信じていた。ある歴史家の言葉を借りるとすれば、「彼らの政府に対する信頼、信用は確たるものであり、もしかしたら政府が自分達の健康を危険に晒すことがあるかもしれないといったような疑問を抱くことなど考え付きもしなかった」のだ。しかしながら彼らは、50年代、そしてそれ以降の自らの経験を通し、実際は全くその逆であったということを確信するにいたる。つまり、大気圏核実験は人間にとっても家畜にとっても全く安全ではなく、原子力委員会はそのことを知っていたのである。1978 年から1980年に機密扱いから外された文書によると、科学者達はすでに1947年には、核実験により放出された核分裂生成物に実験中または実験後にさらされると、それは、人間や動物に死をもたらすことになりうることを知っていたのである。原子力委員会は、内部の科学者や外部の医療研究者からの警告を無視し、「たとえどんなことがあっても実験を中止してはならぬ」といった方針に基づき実験を続行したのである。

もしも地方紙「アイアン郡レコード新聞」の紙面が人々の関心事の度合いを測る正しい尺度となりうるのであれば、核実験が開始されてから最初の二年間、アイアン郡の人々の核実験に対する関心はほとんどなかったと言えるようだ。住民は州規模の日刊紙を読めば核実験の爆発について知ることができたが、この地方紙はどちらかというと民間防衛の心構えについての記事を載せることの方が多かった。住民のより深い関心事はロシアからの核攻撃の脅威であったし、国内の他地域同様、学校では子供達は核攻撃に備えた避難訓練をし、住民は核シェルターを作って、核戦争の際に汚染されずに済むように食物をそこに蓄えるということを始めていた。

1977年から1984年までユタ州の知事を務め、パロワンとシーダーシティーにかつて住んでいたスコット・M・マシスン氏は、50年代初頭のアイアン郡での生活をこのように語った。「ユタ州南部に住む人々の主な関心事はと言えば、どうやって生計を立てていくかということであり、1953年の核実験中に見られた光り輝く閃光や雷のような爆風についてひどく心配している人がいたとは記憶していない。1953年3月から6月まで行われたアップショット・ノットホールという核実験シリーズでは、『ダーティーハリー』と呼ばれる実験による被曝が起きた。この実験は、風下であるユタ州南部に爆発に伴う莫大な量の破片くずなどを撒き散らした。住民は同年5月に起きた羊の大量死について心配したが、原子力委員会が何も心配いらないと発表すると、皆疑惑を感じながらもさしたる行動は取らなかった。栄養失調によるものだろうという理由付けを真に受けるものは誰一人としていなかったが、その時分は特に愛国主義的な時代でもあったため、我々は政府の言うことはそのまま受け入れるものだという風潮に慣らされていたのだ。」

1953年3月、国民に民間防衛に対する意識をより高めてもらおうという目的のもと、核実験場の広報プログラムの一環として600名余りの見物人を核爆発実験に招待し、マネキン人形や一般的な家屋、自動車を実験に用いることでその威力を知ってもらおうという試みが行われた。クリーン・ロロ氏はこのPRイベントに、「アイアン郡レコード」新聞の代表として参加した。爆発地点から11キロ少し離れた場所で爆発を観察した見学者達は、その後爆発による破片や粉塵などがいったん落ち着いた後に実験跡地へ連れて行かれた。最初ロロ氏は実験場に招待された事を「運が良かった」と思っていたが、数週間も経たないうちに「アイアン郡レコード」紙は死の灰についての安全性を問い始めた。同紙はセントジョージに住むユタ大学の学生、ラルフ・J・ハフェンの書いた長い記事を掲載する。そこには、被曝により「すでに起こってしまったかもしれない、あるいは先々起こりうるかもしれない身体への修復不能な損傷について、人々に知らせる義務が、道徳的に考えて、私にはある」と感じたと書かれていた。彼はまた、なぜ実験の後でセントジョージ入りした車は洗車されているのかという点につき原子力委員会に説明回答を求めた。彼は将来的な問題を予測し、「放射能による人体への影響はしばしば5年から10年、あるいは一世代、いやもっと時を隔てて表れるものなのだ。」との警告も発していた。

アイアン郡の放射能による最初の犠牲者は羊とその飼い主達であった。羊が冬を過ごす放牧場からシーダーシティーにある出産場へ移動の最中、18,000頭から20,000頭にも及ぶ羊が1953年3月と4月に行われた実験による放射性降下物により大量被曝したのだ。カーン・ブロックとマクレー・ブロックは、自分達の羊の顔や唇にやけどがあることにまず気付いた。放射能に汚染された牧草を食べていたからである。その後、多くの雌羊が流産し始めた。また、出産場では成長した羊の毛がかたまって抜け落ち、皮膚に生じた水ぶくれが姿を現した。新しく生まれた子羊は死産で、しかもグロテスクな奇形をしているか、たとえ生きて産まれてきても非常に虚弱で育てることは出来なかった。それにより牧場主達は3分の1にも及ぶ家畜を失ってしまった。

牧場主と暫定的な獣医学調査を行った調査員らは、放射能症を疑った。原子力委員会はアイアン郡の農業機関の代表者であるスティーブン・ブラウアーに持ち運び用のガイガーカウンターを一台与えていた。小さな放射線検出器である。彼の報告は、羊のおりで測定したところ「検出器の針が振り切れるほどの反応があった。羊の甲状腺部分や頭のてっぺんでは検出量は高く、口や鼻に病斑やかさぶたがあった。」というものであった。原子力委員会は6月初め、様子のおかしい家畜の調査をするため、シーダーシティへ複数の放射能専門家チームを送り込んだが、死んだ羊の死骸の処理は済んでしまっていた。原子力委員会は自らの研究者に現地報告書を書き換えさせ、放射能による障害や影響だと推測されるあらゆる事項について削除するよう強制したと報じられている。死んだ羊の数を金銭に換算すると、牧場主達は25万ドルの損害を被ったことになる。しかしブラウアー氏は原子力委員会より次のように言われた。「原子力委員会は、動物や人間に対する放射線障害に関する賠償責任が委員会にあるとの前例が裁判においてであれ、他のかたちにおいてであれ、形成されることを決して認めるわけにはいかない。」

1955−56年にアイアン郡の牧場主達から政府に対して5件の訴訟が起こされた。どれも1953年春に実施された大気圏核実験で家畜に損害を被ったというものである。彼らは、若手弁護士、ダン・ブッシュネル氏と共に、正義は勝ち、公正な裁きがなされるであろうと固く信じていた。最初の一件であった「ブロックvs.米政府」が他4件の代表として審理され、1956年9月、シャーマン・クリステンセン判事がこの件を扱うことになった。原告達が驚いたことには、政府の行った調査の技術データや原子力委員会が集めた政府側の獣医達の放射線障害に関する証言が提出されなかったのである。証人として立った政府側の専門家達は、羊の死因またはその死の要因が放射能であったとは考えられないと証言したのだ。ブッシュネル弁護士は、政府は自らを、そしてその核兵器プログラムを守るために不都合な資料を隠蔽していると判事に訴えるが、判事を納得させるには及ばなかった。クリステンセン判事は、政府は実験の際十分な監視・観測を怠ったとの判断を示したが、訴訟の要である被害・損失が核実験の結果に留ものかどうかという最も重要な点に関しては、政府の側に立つ判決を下した。

1979年、議会の公聴会において、原子力委員会が1956年の裁判で証拠隠しをしていたという重大な証拠が発覚し、クリステンセン判事は訴訟を再開した。文面56ページにも及ぶ判決文では、新たに示された情報により政府の弁護士団と役人達が「故意に虚偽」の行為を行い、「詐欺行為の一種」を法廷に対して犯していたことが明らかになったと述べられている。判事はまた、彼らが証人に不道徳にも圧力をかけることで証言させないようにし、極めて重要な報告書を意図的に提出せず、「原告達の羊に対して放射線が及ぼした可能性のある影響に関する重要な事実を意図的に隠した」ということについても言及している。判事は前回の判決を破棄し、原告の再審請求を認めた。

原子力委員会の記録が公開されることを過去20年以上もの間待ち望んでいた弁護士のダン・ブッシュネルはこれでようやく公平な裁きがなされると思った。しかし、第十控訴裁判所は、その「米国の法学における醜い一こま」と呼ばれた決定において、クリステンセン判事の事実認定を拒否したのだ。裁判所の主張は、議会公聴会の資料は連邦裁判所における訴訟手続き上の規則によれば受け入れられないというものであった。連邦控訴裁判所の見解によれば、「新たな証拠」は提出されなかったことになるのだ。つまり、25年前の判決を覆す理由はどこにもないと言うわけである。1986年、最高裁は控訴裁判所の決定に関する上告の審議を拒否した。その時点では、すでに高齢世代の元原告者達はすでに他界していたり、死の淵にあったりという状態であった。また、その内まだ羊の飼育業を続けていたのはほんの二家族だけ。皆、経済的損失という大きな痛手を被っていた。そして何とかして損失を取り戻そうという希望は1986年、最高裁により下された失望的な決定により消え失せてしまったのである。

大気圏核実験が行われた3年から5年後の間であるが、死の灰が降った地域に住んでいたユタ州、アリゾナ州、ネバダ州の住民の間で白血病や放射能に起因する癌を発症する住民が出てきた。子供が白血病にかかるなどほとんど見たことも聞いたこともない地域で、50年代後半から60年代前半にかけて次々と白血病にかかる子供達が出てきた。90年代になるとアイアン郡の住民達は、50年代にそこに住んでいた住民達は死んでしまった羊と同様にモルモットにされた犠牲者である、と信じていた。住民達は核実験場の「風下」に住んでいたと言う意味で、「風下住民」という呼び名を使うようになった。実験はたいてい風が東か北東に吹いている時に行われた。と言うのは、ラスベガスや南カリフォルニアを含む人口密度のより高い南西部に死の灰が降る事を避けたかったからである。アイアン郡は死の灰の降り注ぐちょうどど真ん中に位置していたのだ。死の灰により誰かが亡くなっても、癌にかかったとしても、それを証明することは不可能であるが、そこに住む人達の間で一般的に認識されていることは、癌の続出は核実験によるものであるということである。しかし統計的に見れば、放射線被曝と腫瘍の関連性を立証することは可能なはずである。また地元の住民達は不妊、流産、奇形児についても核実験場の風下に住んでいたことによる負の遺産であると考えている。ユタ州の南西に古くから住んでいる住民達は、様々な身体の問題・不調を核実験のせいであるとはばかることなく非難しているし、またこの先何世代先までこの影響が及ぶのかについて懸念している。

1979年、下院の小委員会の公聴会が、核実験下における政府の監視体制がいい加減であったこと、そして風下住民の身体への悪影響や1953年の羊の死についても死の灰がおそらく原因だっただろうと言うことを明らかにしたが、その報告書「低レベル放射線による健康への影響」は、低レベル放射線被曝と癌やその他の病気との因果関係については認められないと述べている。何年も、あるいは数十年も経ってから初めてこういった身体への影響が現れる場合もあるため、連邦不正行為請求法(the Federal Tort Claims Act)の適用は不可能で、賠償金を受け取るためには新たな法律の制定が必要であった。

しかし、それでも、ナバホのウラン鉱山労働者、核実験場労働者、実験の監視を余儀なくされた軍人、そして放射線被曝による癌で苦しむ風下住民達による政府に対する訴訟は続いた。しかしどれも敗訴。ある一つの核実験をめぐる訴訟「イレーネ・アレンvs.米政府」では、24名の原告が1200名もの犠牲者を代表して戦った。彼らは皆、白血病や癌、また放射線被曝により引き起こされた他の病気に苦しむ犠牲者、あるいはすでに亡くなってしまった犠牲者達である。この24名の内11名が、大気圏実験が行われていた期間アイアン郡に住んでいた。その内2名は子供だが白血病で亡くなってしまい、8名はその他種々の癌で亡くなり、1984年の時点ではたった一人しか生存していなかった。

ブルース・ジェンキンス判事は画期的な判決を下し、犠牲者の一部に対する賠償金の支払いを認めた。しかし政府は控訴し、1986年に第十控訴裁判所はジェンキンス判事の判決を覆した。そして1988年1月、最高裁は再び原告側の控訴の要望を却下した。しかし1990年に「放射線被曝補償法」が議会を通過、ジョージ・ブッシュ大統領の署名のもと新たな法令として誕生した。この法令により、健康に影響を及ぼすおそれがあるという警告が発される以前に地上核実験の行われた場所より風下に住んでおり、後に放射線被曝による病気にかかったとされる住民達に賠償金を支払うために1億ドルの「信託基金」が設立された。その後、この法律は、修正されて1億ドルという上限が取り払われ、賠償の対象者としてウラン鉱山労働者や核実験場労働者も含まれることとなった。この法律には、次のようにある。「アメリカ合衆国はこれらの個人に及んでしまった被害の責任を認め、またその責任をとるべきである。また議会は、不本意にも合衆国の安全保障を優先させるに当たり、ウラン鉱山労働者、そしてネバダ核実験場より風下に住む何の罪も無い住民の命と健康を危険にさらしてしまったことを認識し・・・議会は国を代表して犠牲者の一人一人に・・・そして困難をしいられた家族にも陳謝するものある。」

アイアン郡の住民、また犠牲者の遺族の中にはすでにこの基金より賠償金を手にした者もいる。1994年9月現在では、1003名に賠償金支給の承認がすでに降りており、829名の申請が却下され、また125名の申請が保留となっていた。この法律には制約があることから、自分たちの病気の原因が死の灰によるものだと信じながらも申請することができない者も多くいる。

その結果、住民は、政府を信用しなくなってきている。近年、ユタ州南部の多くの住民達は政府の約束や調査結果について懐疑的になってきている。このことは、1980年と81年、政府が巨大なMXミサイルの移動用線路をエスカランテ渓谷に建設することを検討した際に明白となった。それが90年代の自然保護問題や動植物・絶滅危惧種保護の戦いへと尾を引くことになるわけである。

ユタ州知事の時代に、スコット・マシスン氏はユタ州の住民が核実験の結果直面することとなった様々な問題を世間一般の人々に大いに知らしめた。1979年の公聴会において、彼は原子力委員会の証拠隠しや他の研究に関する1100ページにも及ぶ証言を提出したのである。これは彼自身が末期癌に侵される以前のことである。1986年の彼の個人的結論は次のようなものだった。「私は連邦政府がこの問題に対して取ってきた態度にいまだ憤りを感じている。政府のやり方は、各州の知事が、守るべき自州の人々が連邦政府の下す決断により受ける影響に関し、たとえその影響が短期的なものであれ長期的なものであれ、絶えず注意を怠たるべきではないということを示している。また万一「国益」の為にある州の市民が犠牲にならなければならない場合は、最低限、市民には十分に情報を提供し、できるだけ彼らを守るようにしなければならない。」