原水禁大会
2003.7.23 

牧羊業者と死の灰(背景説明)

ジャネット・ゴードン(市民の声)
(吉田美香訳)

 1951年1月27日、ラスベガスの北西約100キロに位置するネバダ核実験場(NTS)で大気圏内核実験が始まった。1963年に実験の場所が地下に移るまでに100件を越える大気圏内実験が実施された。

1953年春、ユタ州シーダーシティーの牧羊業者らは、羊の冬越え場としていた場所にいた。そこは、ネバダ核実験場のちょうど北から東にあたる場所に位置していた。その春、米原子力委員会(AEC)は、「アップショット・ノットホール」シリーズと呼ばれる11回の核実験を実施した。これらの実験による死の灰は牧羊業者や彼らの羊に度々降りかかった。実験は牧羊業者らにとっては恐怖であった。夜明け前に現れた眩いばかりの閃光は「濃い赤色で醜かった」と彼らは言う。数分後に起こる衝撃波の轟きや振動は羊を四散させ、馬を脅えさせてしまう。実験は彼らがゆっくりとユタ州に向けて戻って来ている間もずっと続いた。夜明けには大量の土や死の灰からなる濛々たる砂埃が、草木やそして草を食べている家畜も勿論いる地面目掛けてどっと襲ってきた。これらすべて恐怖に感じることのように思えるだろうが、当時警戒する理由はなかった。原子力委員会の報道発表は「降下物は、実験場外においては、重大な危険とはならない」とはっきりと述べているのだから。

こう言った請け合いにもかかわらず、シーダーシティーに近づくにつれ羊達に不思議な現象が起き始めた。早産し始める雌羊が出できたのだ。そして産まれた子羊は死産であったり、誕生後すぐに死んでしまったりした。極度の奇形のためだ。出産場に辿り着いた後もこういった状態は続き、大人の羊も死に始めた。羊達は弱り、餌も食べなくなった。羊の多くは身体に膿のあるできものが出来、背中の毛を引っ張ると、軽く握った手に一杯になるほどの量で抜けた。それまで命みなぎる誕生の場であったシーダーシティーの羊出産場は、一気に殺戮の場と化してしまった。死亡数は急上昇し、4月25日から5月25日までの30日間に、出産を控えた雌羊の20%以上と95%以上の子羊が死んでいった。最終的に、シーダーシティーの牧羊業者らは4000頭を越える羊を失った。

地元や州の獣医達は頭を抱えてしまった。このような事態は前例になく、病に付す羊達を救おうとする試みはすべて無駄であった。ついに政府の専門家達が呼ばれ、1953年6月に実施された最初の調査により、以下の発見があった。

「羊の甲状腺部に非常に高い線量が計測。放射性ヨウ素131が高い濃度で存在すると推測される。また、頭部、口、背中に病変。これらは、放射線実験に使用された動物に見られるのと同様のβ線による火傷と診断。」

この初期の証拠すべてが、紛れもなく放射線が羊の死の少なくとも一部の要因にはなっていることを示していると思われ、牧羊業者らは政府が彼らの損失に対しての賠償をしてくれるだろうと確信していた。しかし原子力委員会がその後の調査を引き継ぎ、1954年1月6日、次のような報告書を出した。「現在入手可能な情報に基づけば、昨年春ネバダ実験場の周辺地帯にいた羊の死や発病の原因が核実験による放射能でないことは明確である。」

1955年、8名の牧羊業者ら−−その多くは破産寸前の状態にあった−−が、裁判を起こした。後に「ブロックvs.米政府」として知られるようになったこの裁判は、牧羊業者らの敗訴に終わった。A・ シャーマン・クリステンセン判事は、原告側は羊の被害が放射能により引き起こされたと証明できなかったとして請求を棄却した。原子力委員会は何とか窮地を脱したように見えた。羊は死に、今や裁判もおしまい、と思われた。しかし、それから23年後の1979年、議会が大気圏核実験が健康に及ぼす影響についての調査を行っていた時のことである。その調査に関連して、ある重大な記録が機密解除され、議員達が驚いたことには、その中で原子力委員会による事実隠蔽の証拠が明らかになったのだ。

この新しい情報により1981年2月、牧羊業者らは裁判所に対する詐欺行為だとして前の決定の取り消しを求めた。羊裁判が蘇ったのだ!1982年8月、最初の裁判を担当したクリステンセン判事自身が、新たな証拠に基づいて、検討を行い、連邦政府は「羊の死は栄養失調によるものであると主張することによって、裁判所に対して詐欺行為を働いた」という決定を下した。[こうして再審が決まった]

この件に関する真実が明るみに出るにつれ、原子力委員会は複数の重要証人に圧力をかけ、決定的な重要性を持つ情報や報告書を故意に提出せず、捜査の過程において意図的に事実を隠蔽しごまかしていたことが判明した。原子力委員会がこれほどまでにして真実を隠していたということ自体が、自らを有罪だと認める行為と思われる。

政府はクリステンセン判事の決定を不服として、第十連邦控訴裁判所に控訴し、その結果、牧羊業者らの請求は再び棄却された。その判決には不可解にも、次のように述べられていた。もともと提出されなかった文書類は判決を変え得るものであったかもしれないが、それは原告側の責任であり問題である、と。1986年、最高裁は控訴を却下した。牧羊業者を、「放射線被曝賠償法(RECA)」の対象に加えようとする何度にも渡る試みもすべて失敗に終わった。

50年前に羊の群れを襲った壊滅的影響は、風下地帯の人々や他の動物に何が起きることになるかを正確に示すものだった。羊に降りかかり、殺してしまった放射能は、人間にも降りかかり、影響を及ぼさずにはおかない。政府高官は、放射性降下物は安全だと主張した。なぜなら、「実質的に無人の土地に」降り注いだからだ、というのである。この地域の住民達は、「有権者密度」が低く、保守的であり、愛国心が強かったがために、犠牲にしてもいいと言える存在だったのだ。

経済的影響がいくらに及んだかついての全貌は依然明らかでないが、牧羊業を営んでいた家族にとってみればその結果はすさまじいものだった。繁盛していた商売はだめになってしまうかひどく縮小され、また個人の健康や信頼は大幅に傷つけられてしまった。これらの牧羊業者たちに正義はまだもたらされていない。