原水禁大会
2003.7.28 

ヴェラ・ブロック

 1934年、ネバダ核実験場の風下に位置するシーダー・シティに生まれ、以後ずっと同市で暮らしてきた。7人の子供の母親(孫が16人、曾孫が11人)。

ブロック家は1955年にネバダ核実験場のもたらした被害に対する初めての賠償請求訴訟の一つを起こした。「ブロック他vsアメリカ合衆国」として知られるようになる有名な裁判で、同様の他の数件の代表的ケースとして取り扱われた。1953年(3月17日−6月4日)に行われたアップショット・ノットホールと言う名で呼ばれる一連の核実験(計11回)の放射能の影響で多数の羊が死亡したとして賠償を請求したものである。実験当時、核実験場に近い冬季放牧地帯にいた羊たちが、背中や草をはむ口の周りに火傷のようなものを示し、多数が死んだ。また、生まれてきた子羊も次々に死んでいったのである。1980年に出された連邦議会の委員会の報告書『忘れられたモルモットたち』は、53年の春から夏にかけて、実験場北東部で放牧されていた羊のうち、1420頭の牝羊(12.1%)と、2970頭の子羊(25.4%)が死亡したと述べている。(とくに汚染のひどかった2回の実験当時、1万1710頭の羊が、実験場の北40マイル[64キロ]、東に160マイル[256キロ]の地域の放牧地帯にいたと同報告書にある)

他の家族も合わせたの要求総額は、総額22万6000ドルだった。裁判は最終的に原告側敗訴に終わったが、53年の実験から50周年に当たる今年、ネバダ実験場の風下住民の闘いの先鞭を付けたこの裁判の歴史を今振り返るうえで、ヴェラ・ブロックとその娘ニコールの来日の意味は大きい。また、実は、ニューメキシコ州で1945年に行われた史上初の核実験トリニティーの際にも、羊や牛などに同様の被害がでていたのだが、その実態は未だに明らかにされていない。核時代の原点につながる羊裁判の概要は、下の通りである。
 1956年に原告敗訴の決定が連邦地方裁判所(ソルトレイク)ででる。政府は、住民に警告を与えるなどの注意を怠ったが、政府側の証言から判断して、羊の被害が放射能によるものとは認定できないとの判断だった。ところが1979年に連邦議会で開かれた公聴会で、裁判の際に政府が事実を隠蔽していたことが明らかになる。(前述の報告書はこの公聴会の結論をまとめたものである。)原子力委員会が、実験直後の羊の解剖結果を改竄するようにと研究者に圧力をかけていたことが分かったのである。また、カーター政権の健康・教育・福祉省の法律顧問ピーター・リバシは、羊たちは人間の許容量の1000倍の放射線を浴びたと証言した。さらに、被曝が羊の胎児に与える影響についての1951の報告書の存在も隠されていた。

その結果、1982年、56年の判決を出したシャーマン・クリステンセン判事自身が、その判決を取り消す決定を下し、やり直し裁判を開くことになった。クリステンセン判事は、政府は「裁判所に対し詐欺行為を働いた」と批判した。ところが政府がこれを不服として控訴した。1983年、第10控訴裁判所(デンバー)は、3人の裁判官による審議でクリステンセン判事の決定を覆し、「詐欺の証拠はない」とした。その後、85年同裁判所は判事全員による審議を行い、先の決定を確認した。原告側は、最高裁判所に上訴したが、86年、最高裁はこれを却下し、長い裁判過程に幕が下ろされた。
 1953年の「アップショット・ノットホール」シリーズのうちとくに大きな汚染をもたらしのは、ナンシー(3月24日:24キロトン)とハリー(5月19日:32キロトン)である。(広島は16キロトン、長崎は21キロトン))。両実験とも、塔の上に装置を設置して爆発させるもので、放射能汚染が大きくなる方式だった。

裁判を起こしたのは、デイビッド・ブロックとその二人の息子、マクレー(兄)とカーン(弟)。ヴェラ・ブロックは、故カーン・ブロック(1999年死去)の夫人(1951年結婚)。ヴェラは、実験場近くの放牧地帯には行かなかったが、牧羊業にはヴェラを含め家族全員が当たっていた。

米国の著名なノンフィクション作家ジョン・G・フラー『われわれがユタを爆撃した日──アメリカ最大の死の秘密』の第一章は、次のような書き出しで始まる。

「その夜は静かだった。唯一聞こえていたのは、冬場の放牧地にいる羊たちに付けられたベルの音だけだった。羊たちには落ち着きがなかった。1953年3月のその夜は、あまり寒くなかった。摂氏10度以上だった。そして、こじんまりとした「羊放牧用幌馬車」の中では薪ストーブが寒さを和らげていた。夜が白む前にカーン・ブロック[27]・・・は、馬に鞍を付けることになる。2000頭近くのランブイエ種の綿羊の一群を駆り立て、ユタ州に向かって進ませるためだ−−家路をたどるのだ。100マイル(160キロ)以上の道のりだった。ネバダ州のリンカーン・マインから、東に向かい、ペノヤー渓谷、ティカブー渓谷、ドライ・レイクを経て、最後に、自分たちの町シーダー・シティーにたどり着く。

ブロック家の兄弟達は、ネバダ山脈の静寂と孤独に慣れていた。しかし、直線距離にして40マイル(64キロ)足らずのヤッカ平原での核実験の暴力にには決して慣れることができなかった。核実験の原爆の中には、広島を壊滅させた原爆の4倍もの威力のものもあった。
 どういうわけか、1953年3月24日の夜明け前に行われた実験は、他のものと異なっているようだった。地面は普通より大きく揺れ、羊たちの反応も激しかった。牧羊犬の「レッド」は、幌馬車の中に飛び込み怯えていた。キノコ雲は、4万フィート(1万2000メートル)にまで上っていた。火を噴き、乱れの多いものだった。頂部には、氷晶が広がっていた。カーンは、手で目を覆った。ぎゅっと閉じた指の骨が見えたような気がした。未来が見えたとしたら、今から始まろうとしている驚くべき長いドラマが見えたことだろう。1950年代から80年代にまで広がり、そしてさらに続くドラマだ。そして、それは、ユタ、ネバダ両州の州境を遙かに越えて、米国全体、さらには全世界に広がるものだ。ブロック家の人々も、何千もの他の望まざる参加者も、このドラマに関わりたいなどとは思わないだろう。しかし、ドラマは始まりつつあり、弾みを得て展開しようとしていた。

羊たちは、毎日、6マイル(約10キロ)を移動しながら草をはむ。その口で、深い雪の下にある多孔性の石の多い土壌を掘り、セージブラッシュ(ヨモギ)や、ソールトブッシュ(ハマアカザ属の雑草)、ガエタグラス(牧草)などの根をあさる。ほとんどの醜いキノコ雲は、日の出前に上昇し、偽の夜明けを作り出す。太陽が恥ずかしくなるほどだ。そのとき、ブロック家の馬たちは、ほとんどいつも、後ろ足で立ち上がり、羊たちはバラバラになってしまう。そして、粉塵が雲のようになって襲ってくる。土と降下物からなる濃い雲だ。恐ろしいように思えるかもしれないが、心配はない。原子力委員会のプレスリリースが、明確に述べていた。『降下物は、実験場の外では深刻な危害をもたらさない。』