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2004.7.26 

水爆ブラボー爆発の証人、ジョン・アンジャインさん亡くなる

豊崎博光「グッバイ・ロンゲラップ」より
豊崎博光「グッバドイ ロンゲラップ」より、19才の息子を白血病で亡くし、「放射能に殺された」と語るジョン・アンジャイン

 1954年3月1日、アメリカがビキニ環礁で行った水爆ブラボー爆発実験の死の灰をあびたマーシャル諸島・ロンゲラップ環礁の元村長ジョン・アンジャインさん(81歳)が、7月20日、入院先のホノルルの病院で亡くなりました。7月に呼吸器障害と胃に腫瘍があることから胃ガンの疑いがあるとされて16日に検査のためにホノルルにでかけ、19日に入院、翌20日に突然亡くなりました。直接の死亡原因は肺からの大量出血による呼吸不全で、胃ともうひとつのガンがあるのではないかとされた直腸のガンの検査などはできなかったとされています。

 水爆ブラボー爆発の時、ジョンさんたち64人はロンゲラップ島で、残りの18人は南西約20キロのアイリングナエ環礁シフォ島で死の灰をあび、ロンゲラップ島の64人は爆発から51時間後にアメリカによって避難させられるまで175ラド、シフォ島にいた18人は爆発から58時間後に避難させられるまで69ラドの放射線をあびせられた(2000年9月、放射線保健の専門家ハンス・ビーリングは、被曝直後にアメリカが住民から採取した血液と尿を再分析した結果、ロンゲラップ島で死の灰をあびせられた64人は救出されるまでの間の体内、体外への合計被曝放射線量は半数致死量の400〜450ラドと見積もった)。当時ジョンさんには夫人のミチュワさんとの間にジャカレアス(6歳)、ジョージ(3歳)とレコジ(1歳弱)の3人の男の子がいましたが、レコジは1972年11月15日、急性骨髄性白血病で亡くなり、アメリカは「人類の水爆死1号」とよびました。その後、ジョージと元夫人のミチュワさんも亡くなっています。

 日本とのかかわりは、1971年12月、原水禁調査団がロンゲラップ環礁住民などマーシャル諸島の被曝者調査に訪れた時、中心のマジュロ島で調査団の被曝者調査のために力をつくし、翌1972年8月の広島、長崎で開かれた原水禁の世界大会にミクロネシア議会議員アダジ・バロス氏と共に参加するため初めて日本を訪れました。1979年7月の原水禁大会にはイーバイ島でアメリカのミサイル実験反対運動を行っていたジュリアン・リクロンと共に再来日しています。以後、ビキニ水爆被災40周年の1994年3月、50周年の今年2004年3月には原水協の招待で来日しました。

 ジョンさんは、日本だけではなく、1977年にアメリカ議会の公聴会に参加して以来、アメリカの被曝者市民公聴会などにも参加し、被曝住民の補償と医療ケアの必要性などを訴えてきました。

 90年代は、ロンゲラップ環礁住民が起こす予定のロンゲラップ環礁などの島々の財産の損害賠償請求訴訟の中心的存在となって、核実験の死の灰によって島々によって成り立っていた伝統、文化、習慣などがどのように失われていったのかを証言しつづけていました。ジョンさんが亡くなったことによって核実験の被害をうける以前のロンゲラップ環礁住民の暮らし、伝統、習慣、文化を知る人はいなくなりました。

 ジョンさんは、父親のマーラさんと母親のアヌカトさんの間に生まれた15人の兄弟姉妹の3男で、4男のネルソン、6男のチェトン(元マーシャル諸島議会上院議員で保健相。1993年に骨ガンで死亡)と共に被曝住民の救済を訴える運動の要として活躍していました。

 いつも静かで、決して声高に話すことはなく、話の最後にはかならず、コンモル・アリガトゴザイマシタと言って笑う顔がさわやかでした。

 ジョンさんが、1973年以来住みつづけていたクワジェレン環礁イーバイ島か、現在ロンゲラップ環礁住民が暮らしている同環礁北西部のメジャト島に埋葬されるのかはまだわかりません。

 ジョンさんが、穏やかな海風の吹く、ヤシの木陰で安らかに眠ることを祈ります

(文・豊崎博光)