資料
1998.2

(ル・ヌーヴェル・オプセルヴァトゥール誌1998年2月5-11日号)


フランスが決して認めようとしなかったこと

核実験:禁じられたフランス軍文書(要約)

ヴァンサン・ジョヴェール


 以下の引用はすべて核実験を管轄する軍機関である核実験センター管理局(DIRCEN)の資料から採られている。これらの資料は昨年12月1日までヴァンセンヌ城郭で簡単な請求手続きで閲覧可能だったが、それ以降は公衆のアクセスができなくなった。軍史サービスはアラン・リシャール国防相の命でこの資料を再び非公開にした。また1945年以降の資料目録も書棚から消えた。この突然の閉鎖は、われわれの調査中に行われた。閲覧可能だった1967年まで30年以上の資料の半分しか調べる時間がなかったため、作業は不完全なものにならざるを得なかった。

 フランス核実験による放射性降下物の被曝を受けたのは、レアオ(Reao)、トゥレイア(Tureia)、プカルア(Pukarua)、マンガレヴァ(Mangareva=人口600人で4島中最大)の4島に住む1200人の島民だった。SMSR(放射線安全サービス)は次のように指摘:「この島民は特異な性質を持っている(…)。孤立性、15歳未満の人口、妊婦、子供をつくる年齢にある人口の比率が高いことである。」「同程度の数のヨーロッパ人人口よりも遺伝的リスクが高い。」「核実験のたびに前もって島民を集めておき、降下物の危険があるときはすぐに避難させる。」場所としては「被曝量が最も多い最初の数時間の間、優れた避難所となる教会」が良い。
 第1回目の核実験の数週間前、SMSRは、島民への最良の安全対策は実験の前日に全員を避難させることだと説明。
 だが、実験当事者はこうした抜本策を採るとマスコミが騒ぐとし、「避難の可能性は、政治的、心理的理由により排除された」。
 仏当局は、実験場周辺の気候にまったく無知。アメリカにスパイを送って情報を得ようともしたが、成功しなかった。結局、見切り発車で第1回の核実験を行った。
1966年7月2日未明、15-20キロトン(広島型よりわずかに大きい)の「アルデバラン」が爆発。
 16時頃、テレグラムで作戦司令部に最初の警報:放射能の雲が予想以上に密度が高く、かつ予想ほど高く上がらなかった。大気下層の風で放射能がマンガレヴァ島に向かっている、との内容。
 23時、マンガレヴァの安全責任者から電報:「大臣、無視できない放射能との連絡受領。土壌汚染。除染と食料について指示求む」
ロラン(Lorain)副司令官(核実験作戦部隊長):科学調査船「コキーユ号」の派遣し、
損害評価をおこなうことだけを命令。極秘任務。
 調査船に同乗のフィリップ・ミヨン医師が詳細な報告を残している。この報告は2部しかなく、秘密文書に指定されている。「コキーユ号は7月5日(実験の3日後)にマンガレヴァ近海に到着。プランクトンと魚の最初の調査で放射能が検出された。」翌日、船は島最大の村リキテアに入港。「地元の食料品を対象に計測を開始した。」「洗っていないサラダ菜で18000 pCi/g」[チェルノブイリ原発事故直近地域の牛乳で事故当日に検出された汚染と同レベル]。8日、「2時間の豪雨の後(…)、溝のなかで採取した土のサンプルで1400 pCi/g」。だが、「対策はまったく取られなかった」。
 ミラン医師は次のように記している:「島民は(…)まったく無意識、無頓着で、何の好奇心も示していない。ダニエル老[島の精神的首長]も、放射性降下物がいかなるものかまったく知らない。他の長期滞在「ポパ(ヨーロッパ人のこと)」(看護婦、農家) も、何ら心配を示しておらず、何の疑問ももっていない。」軍人は汚染のことを知っているが、「ほとんどの者がどの程度の数値に達しているかははっきり知らない」。最初に警報を発信した安全サービスの大尉は「島民に正直に言う政策が取られなかったことを嘆き、心が揺れている」「誠実さから、彼は裸足で歩いたり地面で遊ぶ村の子供たちのことを心配している」が、「完璧に反応した」(秘密を守ったということ)。
 ミラン医師はさらに次のように記している:「好ましくないヨーロッパ人教師の夫婦を永久にマンガレヴァから離さなければならない」。だが、「心配していない」他の島民に対して避難は行わず、避難場所を建設してはどうかと言うにとどまった。彼ははるかに威力の強い核実験が続いて行われることを知っていた。
 8月に入って、マンガレヴァ島で(そしてトゥレイア島、レアオ島でも)コンクリートのトーチカと、サハラで核実験を行っていたときに軍が使っていた「カメ」と呼ばれる避難所が、目立たない形で建てられた。この工事を見て、島民は不安を持った。レアオ島の軍指揮官はこう記している:「原住民のなかには、「カメ」は自分たちを閉じこめるための罠で、爆弾が破裂した後その中で殺されるのだと言いふらす者もいる」
だが、トゥレイア島の指揮官はこう記している:「礁湖側のトーチカは水漏れの面から確認する必要がある。中に入って全部明かりを消し、戸を閉めると、コンクリートブロックの隙間から外の光が見える。」「一晩雨が降ると、床の半分が大きな水たまりになってしまう」
 9月26日に放射能を含む雨がトゥレイア島とマンガレヴァ島に降った。安全サービス長は「放射性の強い数多くの降雨」と報告のなかで記している。これは船の上で行われた2回目の核実験の2日後にリゲル島に降った降下物のこと。この実験は250キロトン(広島型の20倍)で、マンガレヴァ島に降った雨水の放射能は1リットル当り10万ベクレル(チェルノブイリの地下水で検出された最高値のレベル)に達した。だが、マンガレヴァの安全官の記録によると、「何も対策は取られていない」。「島民を避難所の近くに集めた」が、「放射性の雨が降ったために、取られている対策について秘密を補強しなければならなかった」ため、中に入れようとはしなかった。
 トゥレイア島では、軍の責任者が実験時に女性と子供にトーチカの中にいるよう指示した。だが、放射能を含んだ雨が降ったときは一般の島民にも、島にいた軍人にも、部下に対しても何も言わなかった。「土壌の汚染測定は、関係者を動転させないよう、満遍なくは行わなかった」
 1967年に行われた最後の船上核実験は、小規模なもので汚染は少なかったが、唯一トゥレイア島で、実験の2日後の7月4日に放射能雲の2次降下物が降り、その後2週間にわたって降った雨で土壌に1平方キロ当り約10Ciの汚染が溜まった。これは防護服が義務づけられる「滞在規制ゾーン」のレベル。
 1968年以降の資料は未公開だが、1968年にムルロアで行われた初の水爆実験のさいに、トゥレイア島の住民が7月の伝統祭りに招待するという名目で島を離れ、パペエテで数日を過ごしている。
 厚生省は1984年になってようやく4島のガン記録を取り始めたの。つまりこれ以前に島民が白血病やガンで死んでいてもわからない。84年以降のガン記録に基づいた公式調査はまったく行われていない。1997年になって初めて軍が仏領ポリネシアにおけるがんと核実験の関係に関する調査の予算を認めた。国立健康医療研究所が調査を行い、1997年に報告書を提出したが、未だに公表されていない。

(訳:真下俊樹) 

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