資料
1999.4.16

(ハーグ平和アピール会議事前学習会'99/4/16)


恒久世界平和のために

―「戦争の制限」から「戦争の違法化・廃絶」へ―

講演:河上暁弘さん(専修大学大学院・憲法学)


 今年は1899年のハーグ平和会議から100年目にあたるということで、ハーグで市民を中心にした平和会議が開かれます。今日は、実践的な問題に携わっている方が多いと思うので、むしろ大きな思想的枠組みの話をしようと思います。
 演題は、「恒久世界平和のために」という大きなテーマを掲げました。第1回のハーグ会議は戦争の制限という大きな役割を果たしたのですが、時代はさらに進んで、戦争の違法化、そしてできれば戦争をなくすということが今私たちの時代のテーマになっていると思います。20世紀は革命と戦争と大量死の時代、たくさんの人たちが殺され、たくさんの血を流した時代でした。歴史家のホブズボームは20世紀は「極端の時代」であったと言っていますが、21世紀をまともな時代にしていくために、どういうことをしていったらいいのでしょうか。そのために、まず歴史から見ていこうと思います。

 
近代における戦争と平和
 
 戦争がなくなれば即平和というわけではありませんが、やはり平和というものを真剣に考えるきっかけとなるのが戦争です。戦争の悲惨さを訴え、戦争をいかになくしていくかを考えた思想は、古代ギリシャの時代からいろいろありました。しかし、やはり近現代の戦争の悲惨さはそれまでの戦争とは比べものになりません。大量殺りくが行なわれ、非戦闘員までも殺され、生活も政治も経済もすべてを巻き込んだトータル・ウォーになっていったのが近代戦争です。近代においては政治は人権保障を目的にし、その手段として権力を制限する民主主義があるわけですが、人権保障の前提は平和です。平和なしに人権もへったくれもないという認識が、戦争の経験を通して広く共有されるようになりました。従って近代になって、平和そのものが目的として意識されるようになったのです。そしてそれを実効化する手段として、憲法や条約に戦争の制限が規定されるということが出てきました。
 その端緒は、やはりフランス革命です。1791年に制定されたフランス91年憲法には、「征服戦争は禁止する」という条文があらわれました。それと前後して、サンピエール、ルソー、カントなどの平和思想が花開きます。特にカントの『永遠平和のために』という著作が非常に有名ですが、その中では、戦争を起こすのは軍隊であるから常備軍は撤廃すべきだ、あるいは戦争の被害を被るのは国民であるから、国民の意見反映なしに戦争をやる君主制をなくして共和制にすべきだ、ということが言われています。また国家単位のエゴをむき出しにするのでなく国家連合を作っていこう、そのために市民が国境を越えて互いに訪問する権利を確立しようということを唱えてもいます。カントが200年前に唱えたこうした思想は、日本国憲法の常備軍撤廃につながっているわけで、近代のひとつの意義がそこに見えます。
 
キリスト教的正戦論から無差別戦争観へ
 
 第1回ハーグ平和会議に至る戦争を制限する道筋は、どんな風に出てきたのでしょうか。 中世までは、神の意に添う戦争は正義であるという理論で、戦争が正当化されてきました。このキリスト教的正戦論は、正義の戦争でなくてはならないので、一応不正義な戦争というものも想定されているわけですが、教会に逆らって不正義を唱える権利はない。原始キリスト教では、「剣を鋤に変える」などの平和主義の教えがありましたが、国教化、体制化していく中で堕落していったわけです。
 もちろんこれに対する批判はありました。スペインなどがキリスト教の名の下に新大陸を侵略し大量虐殺を行なっているのを目の当たりにし、宣教師のラス・カサスは「沈黙は共犯なり」として鋭く批判しました。しかしこうした批判は主流とはなり得ませんでした。
 近世から近代にかけて、1618年から1648年まで戦われた30年戦争などを経て教会の権威が崩れ、正義のための戦争はないという認識が出てきます。30年戦争ではプロテスタントとカトリックが互いに正義をかけて戦ったのに、残ったのは不正義であったという自覚が生じ、論争はするけれども命は奪ってはならない、寛容の精神という考え方が出てきました。
 この30年戦争の終結にあたって結ばれたウェストファリア条約は、国民国家・主権国家の分立・並存体制が確立し宗教的権威が衰える契機となったことで有名です。主権国家が互いに平等であるとすれば、誰がその間の戦争の正義不正義を判定するのでしょう。これまでの神のような絶対的な基準がありません。そこで、この時代、戦争は正義不正義を問わず容認されるようになり、せいぜい宣戦布告などの形式が問われるだけとなりました。このように国家目的追求の手段として戦争を容認する考え方を、正戦論に対比して無差別戦争観といいます。1625年には国際法の父と呼ばれるグロティウスが『戦争と平和の法』を書いていますが、これも結局、戦争をルール化しようという程度です。
 ただ、それでもあまりにひどい戦争はなんとかならないか、せめてもう少し人道的にならないものかと世界の人々は考えていました。そんな中で開かれたのが、第1回のハーグ平和会議です。
 
第1回ハーグ平和会議
 
 第1回ハーグ平和会議は、1899年にロシアのニコライ2世が呼びかけて開かれました。参加28ヵ国はヨーロッパ中心で、殖民地であったアジア・アフリカ、またラテンアメリカの国々はほとんど参加していません。日本は当時日清戦争に勝ったばかりで、列強に入りたいという思いから参加しています。これは、最初の政府間の国際平和会議でした。
 もともと軍備の縮小を話し合うのが目的でしたが、これは成果が得られず、国際紛争をいかに平和的に解決するか、戦争を人道化するかが話し合われました。その結果、国際紛争平和的処理条約、常設国際仲裁裁判所、ハーグ陸戦条約といった制度や規則が定められたのです。常設国際仲裁裁判所の設置には、政府間の協議だけでなく1870年代の市民の国際仲裁裁判制を求める幅広い運動が実ったという背景があります。ハーグ陸戦条約は、第2回の会議で改正され、現行のハーグ陸戦法規となりました。またこの会議では、現在の飛行機にあたる軽気球からの爆弾投下の禁止、毒ガスの使用禁止、殺傷力の強いダムダム弾の使用禁止の宣言が出されました。ただ、宣言にとどまり条約化に至らなかったのが、二度の世界大戦の悲劇を生んだとも言えるでしょう。
 
第2回ハーグ平和会議
 
 1907年に開かれた第2回のハーグ平和会議では、1回目の参加国に加えてラテンアメリカの国々が参加しました。常設国際仲裁裁判所は、この会議で常設国際司法裁判所になり、現在の国際司法裁判所(ICJ)につながっています。ハーグ陸戦条約も改正されて、現行のハーグ陸戦法規となりました。
 また「契約上の債務回収のためにする兵力使用の制限に関する条約」という条約も結ばれました。債権国が債務を取り返すために債務国に対し軍隊を用いてはいけないということを定めたものです。これは、特殊な形ではあれ、戦争を制限する初めての条約となりました。
 
ハーグ平和会議の意義
 
 この2回のハーグ平和会議の意義は、戦争の制限と人道化に端緒をつけたことにあります。ハーグ陸戦法規はぜひ読まれることをすすめますが、現在の沖縄問題などを考える際にも非常に重要な内容です。
 沖縄では、戦後住民が収容所から帰ってくると土地が囲い込まれて米軍のものになっていました。ハーグ陸戦法規の46条、47条には、略奪の禁止、私有財産没収の禁止が定められています。アメリカが言うように「占領のための徴発」だとしても、52条には徴発には対価をきちんと払わなければならないと書いてあります。まして自国の軍事基地を置くということは、明らかに陸戦法規違反であり、もってのほかです。大田知事と政府の間で裁判が行われましたが、そもそも出発点が違法行為に始まっているなら、基地の土地収容は最初から違法ではないでしょうか。この点は、沖縄返還国会の時、佐藤栄作首相もこうした行為を最後には「違法」と認める答弁を、社会党の川崎議員に対して行ったこともあります。村山首相はこの答弁を受け継ぎませんでしたが。さらに、これはあまり知られていないのですが、アメリカの弁護士会のような団体が、戦後アメリカ国内で沖縄で起こっていることはおかしいと問題にしていた事実があります。
 またハーグ陸戦法規には、非武装都市の攻撃禁止、不必要な苦痛を与える兵器の禁止が盛り込まれています。将来に渡って後遺障害を残す核兵器は、この「不必要な苦痛を与える兵器」にあたるのではないでしょうか。ICJの「核兵器の使用は一般的には違法である」という勧告的意見でも、東京地裁が1961年に出した「原爆投下は国際法上違法である」という判決でも、このハーグ陸戦法規が重要な根拠となっています。このように、ハーグ陸戦法規は一般に考えられている以上に大きな意味を持っていると言えます。
 第2次大戦後、勝った側が敗者を裁くということが行なわれましたが、では勝った側の陸戦法規違反はどうなるのでしょうか。勝った側をも裁く国際裁判所を設けるという考え方もあっていいでしょう。今コソボで行われているNATOの空爆を見ても、これからの問題として考えられることです。
 
限界、そしてハーグ密使事件
 
 ハーグ陸戦法規は、戦争自体を禁じたわけではなく、せいぜい人道化しルール化する程度でした。そもそも戦争自体が人道的なものではないので、人道化すると言ってもやはり限界があります。第1次、第2次大戦を止めることはできませんでした。
 また2回のハーグ平和会議の参加国はほとんど君主国でしたので、民衆の意思を充分反映していたとは言えません。同様に、植民地の意思は無視されていました。その典型的な事件がハーグ密使事件です。
 ハーグ平和会議の場で日韓保護条約の無効を訴えるために朝鮮国王の高宗が3人の密使を派遣したのですが、参加各国は朝鮮は日本の保護国であり代表権がないといって退けました。密使を送ったことが発覚した後、日本は高宗を退位させ、第3次日韓協約を押しつけて韓国軍も解散させたという経緯があります。この当時の国際法はそもそもいいかげんで、大国が一旦植民地支配を認めると、国際社会で合法として扱われてしまいます。桂・タフト協定では日本の朝鮮支配とアメリカのフィリピン支配を互いに黙認し合うという秘密取り決めがされていましたし、日露戦争後のポーツマス条約でも、日本の朝鮮半島での有利な地位を認めています。韓国の人たちは、どんな気持ちでハーグ平和会議100周年を思うのか、日本人としては、そういったことにも留意しておく必要があるでしょう。
 
不戦条約による戦争違法化
 
 その後、戦争違法化の潮流は、1920年の国際連盟規約、1928年の不戦条約、そして1945年の国際連合憲章へと続きます。
 国際連盟規約は戦争の自由に制限を加えたものの、全会一致の勧告が得られない場合には、戦争が開始できました。しかも連盟にはアメリカなど大国が入っていないので、実効性が薄いものでした。
 本格的に戦争を違法化したのは、ケロッグ=ブリアン条約とも呼ばれるパリ不戦条約です。フランスのブリアン外相とアメリカのケロッグ国務長官が提唱して結ばれました。国際連盟にはアメリカが入っていないので、アメリカを含めて不戦条約を作ったものです。条文は3条しかありませんが、非常にはっきりと戦争を違法化しています。第1条は「締約国は国際紛争の解決のため、戦争に訴えることを非とし、かつその相互関係において、国家の政策の手段としての戦争を放棄することを、その各自の人民の名において厳粛に宣言する。」とあり、日本国憲法の第9条1項とよく似ています。この3条しかない条約で、戦争は一般的に違法化されました。定説的な理解では自衛のための戦争は禁止されていないと解釈してきましたが、条文を見る限り、禁止の例外は何も書かれていません。
 運用・解釈の面で骨抜きがされるのは、いつの時代も同じです。アメリカは「自衛権の発動は国家固有の権利・正当防衛権であるから制限されない」と解釈し、これは憲法9条1項の解釈にも影響を与え、今でも通用しています。(ただし2項で戦力不保持・交戦権を否定しているので、結局は自衛戦争も含めてできないとされる。)しかし個人の場合正当防衛権があるからといって、普段から銃を持つことが当然に許されるわけではありません。また正当防衛とは違法性を阻却する事由に過ぎませんから、違法性が阻却されるかどうかは具体的事件ごとに裁判所が判断するしかないのですが、国家の場合、正当防衛か過剰防衛かを判断する者はいないのです。そして、骨抜きが自国の自衛権だけならまだ良かったのですが、イギリスは自衛の範囲を植民地に拡げました。日本はさらに利害関係地域(これは満州のことです)に拡げました。また日本は、違法とされたのは戦争であり、戦争に至らない武力行使は良いと解釈しました。そして満州「事変」、上海「事変」という名で侵略戦争を行なっていったのです。
 結局、違法か合法かの判定を自分本人でやったのでは悪いことの禁止はできません。不戦条約は条文は良かったのですが、解釈・適用の段階で骨抜きにされてしまいました。しかし、原則として戦争を違法化した意義は大きいのです。以後、国家は戦争をするにはこの条約に違反しないことを証明する責任が生じました。
 
戦争違法化の影響
 
 不戦条約は、国際法を「狼たちの法」「強盗団の利益分配法」から一応の「法」へと昇華させました。有力な大国が決めたことが国際法であるという状態から、まがりなりにも戦争が違法化されてからは、武力による併合などはやりにくくなりました。日本による満州併合に際しては、武力による威嚇によって結ばれた条約は無効であるというスティムソン主義が唱えられました。そしてそれは、条約の締結手続きについて定めた1969年のウィーン条約法条約第52条に結実しています。こうしたものの背景に、1889年の第1回汎アメリカ会議、1925年の汎アメリカ国際法典案など、いわば「羊たちの法」もあったことは重要です。
 
戦争非合法化運動
 
 パリ不戦条約が結ばれた背景には、1920年代に全米で起こった「戦争非合法化運動」という市民運動がありました。運動を提唱したのは法律家のレビンソンで、アメリカ最大の哲学者といわれるジョン・デューイが運動のオピニオン・リーダーとして活躍しました。この運動はいろんな問題提起をしていますが、実におもしろい内容を持っています。
 彼らは「侵略と自衛の区別はできない」とし、戦争を例外なく違法化する国際法典と、国際紛争を平和的に解決する国際裁判所の設置を求めました。戦争に反対する者が様々な理由をつけて監獄に送られることを見ても、国内法的にも戦争は最も合法的な存在となっている、と彼らは告発します。どの国も戦争を起こすときは自衛を語るので、すべての戦争を例外なく禁止しなくては、戦争の廃絶はできません。紛争を最終的に解決する方法は力によるか法によるかしかありませんが、彼らは力による解決を否定し、戦争を禁じる道として国際紛争解決のための国際法整備を求めたのです。
 レビンソンやデューイは、国際連盟を厳しく批判しました。国際連盟は国家の同盟であり、国家とは戦争を人民に押しつける存在です。戦争を前提とする国際秩序をなくさなければ国際連盟は意味がないとして、彼らはアメリカの加盟に反対しました。これは孤立主義をとるべきだという話ではありません。
 この戦争非合法化運動は全米で展開され、彼らの考えを訴えたパンフレットは100万部以上発行され、また200万人を越える戦争違法化を求める署名が集まりました。これはアメリカ史上最大の署名運動でした。
 
パリ不戦条約・憲法九条への影響
 
 パリ不戦条約は、この運動に大きな影響を受けています。不戦条約を結ぶことを決めた上院の外交委員長は、この運動の指導者のひとりであるボーラーでした。運動の仲間にはノックス元国務長官もいて、これがケロッグ国務長官に影響を与えたと考えられます。またレビンソンはヨーロッパを訪問し、フランスでブリアンの側近のレジェという人物に会って話をしています。こうしたつながりが、不戦条約に結実したと言えます。また、日本の外務省は不戦条約を結ぶ際、この条約について実によく調べていますが、条約の思想的淵源に戦争非合法化運動を挙げています。
 また私は憲法九条の思想的淵源は何かという研究をしていますが、これも不戦条約、そしてもともとは戦争非合法化運動にあります。憲法九条を起草したのは幣原首相とマッカーサーだと言われますが、幣原はかつて駐米大使を経験し、ウィルソンやケロッグやボーラーとつながりがあるのです。
 
理想と現実
 
 最後に、少しロマンチックな話をしましょう。     
 今見てきたように、戦争の違法化にあたっては、市民の運動がいろんなところで大きな影響を与えています。条約は政府間の交渉によってのみできたように見えますが、民衆の知こそが背景にあるのです。
 核兵器廃絶は、国連決議の第1号で決議され、その後も何度も総会では決議されましたが、なかなか実っていません。しかしラッセル・アインシュタイン宣言やICJの勧告的意見に見られるように、希望がないわけではありません。こうした光を見逃さないことこそが、大切だと思います。
 よく日本の「現実主義」者が陥りがちなのは、現実が所与のものであるという誤謬です。現実は、確かに所与のものという側面もありますが、半分はこれから創っていくものだということを忘れてはいけないと思います。「理想が現実をきり拓く」のです。ユートピアとはまだ現れてはいないもののことですが、そうした理想が現れてきたこと自体が、ひとつの現実なのです。そして、それらは少しずつ現実を動かし始めるものなのです。
 
ハーグ平和アピール会議
 
 100年前の会議は、戦争の制限を定めたにすぎませんでした。今回のハーグ平和アピール会議では、100年前の限界を見極めて、できなかったことを振り返り、先に進めることが必要でしょう。野蛮から法へという歴史の流れの中で、現在でもそれに逆行する事実がいろいろあります。総論賛成、各論反対では意味がないので、市民としては、やはり具体的な行動提起を各国に示すことが重要だと思います。成果と限界を明らかに示し、次に続けていくことが必要なのではないでしょうか。
以上

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