資料
2002■

核絶対否定への歩み

(『核絶対否定への歩み』 森瀧市郎 渓水社より)


 いまの私は、いつ、どこでも「核絶対否定」をためらいなく口にする。しかし、かつては核の「平和利用」にバラ色の未来を望んだ。私の反核の意識が、どんな軌跡をたどっていまのようになってきたか。日記などをたどってふりかえってみたい。


・原発の贈り物

 私が広島で原発の問題にもろにぶつかったのは、一九五五年(昭和三十年)の一月末であった。

 一月二十八日(金)の日記
「・・・夜、原水禁広島協議会常任理事会。・・・イエーツ米国下院議員が広島に原子力発電所を建設すべしとの提案をなした、との報道が今朝の新聞・ラジオで行なわれたのでこれに関して熱心な討議。結局、市民に問題点を明示する声明書を出すこととなる。起草委員は渡辺、森滝、佐久間、田辺、迫。」

 一月二十九日(土)の日記
「中国新聞に昨日、私がただ一言『うかつに受け入れてはならぬ』と原子力発電所について記者の問いに答えたことが大きくとりあげられていた。午前、渡辺文学部長の部屋に起草委員が集まり、原子力発電所問題についての声明書をつくり、午後、報道関係の人々を集めて発表。」

 一月三十日(日)の日記
「昨日の声明書が各新聞の三面に報道された。米国にもはっきり伝えられるであろう。・・・・」

 この声明の原文はいま探し出せないのが残念であるが、中国新聞に載った声明要旨は以下の通りである。

  1. 原子力発電所装置の中心となる原子炉は、原爆製造用に転化される懸念がある。
  2. 原子炉から生ずる放射性物質(原子核燃料を燃焼させて残った灰)の人体に与える影響・治療面の完全な実験が行なわれていないため重大な懸念がある。
  3. 平和利用であっても、原子力発電所の運営に関してアメリカの制約を受けることになる。
  4. さらに、もし戦争が起こった場合には広島が最初の目標になることも予想される。
  5. 原爆を落とした罪の償いとして広島に原子力発電所を設置するということもいわれているが、われわれは何よりも原子病に悩む数万の広島市民の治療、生活両面にわたる完全な補償を行なうことを要望する。

 この声明書を見た浜井市長は、困惑と失望を隠さなかった。出会いがしらに私に言った。「新聞であの声明書を見たときは『しまった!』と思いましたよ。マイク正岡は、本当に善意であそこまで運んでくれたのに」と。
 浜井市長の新聞談話には「原子力平和利用は一昨年から私が米国によびかけていたもので、とくに昨年渡米したときマイク正岡氏にも頼んだ。彼の熱心な運動が実を結んだのだと思う。しかし微量放射能による悪影響が解決されない限り平和利用はあり得ない。いずれにしても原子力の最初の犠牲都市に原子力の平和利用が行なわれることは、亡き犠牲者への慰霊にもなる。死のための原子力が生のために利用されることに市民は賛成すると思う」と。
 イエーツ議員が一月二十七日下院に提出した決議案の趣旨説明も、「広島に原子力発電所を建設しようとの提案は昨年九月、政府原子力委員会のマレー委員によってなされたもので、その目的は、人間の発明を死のためではなく、生のために使うよう努力すべきだ、とのアイゼンハワー大統領の提唱を実現しようとするためにある」と。生のための善意の贈り物と信じたい。
 しかし、浜井市長が心配した微量放射能の問題は、あれから四半世紀経た今日もなお解決していない。


・平和利用博

 翌一九五六年(昭和三十一年)には「広島原子力平和利用博覧会」(五月二十七日〜六月十七日)が開催されて、私たちは、またしても「平和利用」問題にぶつかった。
 アメリカが全世界に繰りひろげていた原子力平和利用博覧会は、すでに開催地二十六ヶ国におよび、観覧者は一千万人を突破していた。日本では東京、名古屋、京都、大阪の会場で百万人近い観覧者をのみこんでいた。それがいよいよ広島に来るというのである。
 被爆者の小さな反発のつぶやきはなんともなるものではなかった。しかし原爆資料館の陳列品を撤去して、そこを会場として使用するということに対しては反発せざるを得なかった。

 二月五日(日)の日記
「・・・被爆者連絡協議会世話人会。三月初旬に県内の大会。原子力利用博に原爆資料館を使用することに反対・・・」

 二月十日(金)の日記
「・・・夕方、市長(渡辺氏)と原爆資料館の資料持ち出し(利用博のため)につき話し合う。持ち出しは不見識であることに市長も共鳴。しかし、いまとなっては財政上、資料館を使用せざるを得ざる段階なりと」

 四月二十五日(水)の日記
「・・・アメリカ文化センター館長フツイ氏よりアメリカ政府の回答を受け取る。三月一日のビキニ二周年集会の決議により、米英ソ三国首脳に送った水爆実験中止要請の手紙への返事。日本政府への回答と内容はほとんど同じ」

 その頃、アメリカ文化センターは、広島ではアメリカ大使館の出先機関」の任務をもっていた。私は、この回答の手紙を受け取ったあと、フツイ館長に対して、原子力利用博の会場のために、原爆資料館の陳列品を持ち出すべきでないこと、被爆市民の感情をよく考慮すべきことを諄々と説いた。
 私は遂に、「私があなただったら、そんなことは絶対にしない」と、かなり語気強く言った。すると、フツイ館長もひらきなおって言った。「私は『平和利用!』『平和利用!』『平和利用!』で広島を塗りつぶして見せます」と。
 その後、広島市当局は、条例からいっても、原爆の資料展示は会期中も中止できないという理由で、会期中は基町の中央公園に移すという糊塗策をとった。

 五月二十五日(金)の日記
「中国新聞の招請で原子力平和利用博覧会の下見をする。評を求められて、原子炉のいわゆる『灰』(放射性物質)の処理法法が示されていない点を指摘す」

 ともかくも広島原子力平和利用博覧会は、アメリカ文化センター、広島県・市、広島大学、中国新聞社の共催で五月二十七日に華々しく開催し、反響は大きかった。会期終了後、人気を呼んだマジック・ハンドや、あらゆる型の原子力発電所や原子力船の模型は、そのまま原爆資料館に寄付され、何年間か資料館に陳列されていた。原子力は戦争に使われたらこんなに悲惨だが、平和利用の未来はかくもすばらしい、ということがひとめでわかるように。
 しかし、あのとき、私が原子炉の「灰」の処理方法が示されていない、と評したこの問題は、四半世紀後の今日も未解決の「放射性廃棄物の究極的処理」の問題として人類に迫ってきているのである。


・被団協の宣言

 米国から広島に原子力発電所の贈り物という話が出た一九五五年(昭和三十年)は、あの感動的な第一回原水禁世界大会が広島で開催された年である。
 この大会では広島・長崎の原爆体験が初めて広く伝わり、原水爆禁止と被爆者救済の運動の出発点となったが、原子力の「平和利用」も「原発」も話には出なかった。ただ鳩山首相のメッセージだけが「平和利用」に言及した。松本副官房長官が代読した首相のメッセージはいたって簡単であった。いわく「本大会に外国から多数参加され敬意を表します。原子力が人類の福祉のために使用されることを祈ります。本大会の成功を祈ります」と。しかし、原水爆の禁止や核実験の禁止については一言も触れなかった。
 「原子力平和利用博覧会」が広島で開催された一九五六年(昭和三十一年)は、第二回原水禁世界大会が長崎で開かれた年である。さすがにこの大会では「平和利用の分科会」が設けられた。しかし、そこには「平和利用」否定の意味は微塵(みじん)もなく、「平和利用」は民衆のためのものであるべきであり、独占大資本のためであってはならぬ、という警告的な発言が多かっただけである。例えばイタリア代表のキャサディー氏は、「平和のために利用される原子力は、巨大な独占利潤を増加させるために使われるのではなく、すべての労働者がより多くのパンとより高い生活水準と、よりよい健康と安定した完全雇用と、より多くの自由と幸福を実現できるように社会の共有財産となることを望む」と述べた。ルーマニアのノヴァク教授も平和利用は民衆のためのものでなければならぬ旨を伝えた。
 鳩山首相は長崎の大会にもメッセージを寄せたが、前回と同様に、原水爆禁止に触れることなく平和利用のみをうたった。いわく「原子力が世界平和と人類の幸福のために善用されることを切望する」と。日本学術会議の原子力平和利用の三原則の「民主・自主・公開」が平和利用の前提であることは、この大会で国際的に認められた。
 「平和利用」という言葉は、このように日本の原水禁運動の初期から突きつけられたが「民主・自主・公開」という用心のカベが設けられただけで、一般には「平和利用」のバラ色の未来が待望されていたのである。
 原子力の「軍事利用」すなわち原爆で、あれだけ悲惨な体験をした私たち広島、長崎の被爆生存者さえも、あれほど恐るべき力が、もし平和的に利用されるとしたら、どんなにすばらしい未来が開かれることだろうかと、いまから思えば穴にはいりたいほど恥ずかしい空想を抱いていたのである。
 長崎での第二回世界大会のなかで結成された日本被団協の結成大会宣言には「世界へのあいさつ」というサブタイトルがつけられていた。世界に向かって被爆者の思いのたけを述べたものであったが、その結びに近いところで、「私たちは今日ここに声を合わせて高らかに全世界に訴えます。人類は私たちの犠牲と苦難をまたとふたたび繰り返してはなりません。破滅と死滅の方向に行くおそれのある原子力を決定的に人類の幸福と繁栄の方向に向かわせるということこそが、私たちの生きる限りの唯一の願いであります」と。しかも草案を書いたのは私自身だったのである。


・タペストリー

 広島での原水禁運動は、その初期から「原発の贈物」問題や「原子力平和利用博覧会」の開催で、「原発」や「平和利用」の問題には、はやくからぶつかってはいたのである。
 しかし、それへの対応は多少抗議らしい文句をいった程度で、「反対」とか「否定」とかいう対応ではなかった。むしろ原水爆は「悪」であり「死」であるに対して、「平和利用」は「善」であり「生」であるという思考の型は定着していた。原水爆を一日もはやくなくして、安心して平和利用を進めることができるようにしたいという考え方が共通していた。だからこそ、私たち被爆者までが「世界へのあいさつ」のなかで、原子力の軍事利用から平和利用への方向転換をねがったのである。
 このような考え方が、最も鮮明に出ているのが今堀誠二氏の「原水爆時代」という著書であった。それを貫く理念は要するに「原水爆時代から原子力時代へ」ということであり、原水爆の廃絶によって、原子力平和利用時代を一日も早く迎えたいということである。原子力を否定する意味は毛頭ないばかりか、原子力の発見は人類を自然の制約から解放するところのもので、人類史上最大の転機をもたらすもの−と評価するのである。
 「すべての人間が被爆者の身になって考えることが大切で、そうなれば全人類がすべて被爆者となりつつあることに気づかざるを得ない。『被爆者をこれ以上ふやすな』と言う声がみんなのものとなったとき、原水爆時代は終わるのである。原子力時代が、明るい光に包まれたバラ色の夜明けを迎えるのは間近であろう。ただ、この日本人の使命を果たすために、どうしたらよいかについては現代史の証言に聞くべきである」と(「原水爆時代」<上>あとがき)。
 これは、まさに被爆者が「世界へのあいさつ」のなかで、高らかに世界に向かって宣言したのと全く同趣旨である。このような考え方は、原爆後四半世紀近くもつづいた。それは、あたかも国民の原子力についての合意であるかのように見えた。すなわち、原子力の「軍事利用ノー」「平和利用イエース」であった。
 それを象徴するのが一九七〇年(昭和四十五年)の「万博」の政府館の目玉ともいうべき二つのタペストリー(つづれの壁掛け)であった。
 池田内閣の「所得倍増」政策で、日本経済がやや上向きになり、それを証明するかのようにオリンピックを東京で立派にやりとげ、世界に戦後の日本を見直させた。その後の内閣が、「高度成長」とか「列島改造」とかの掛け声で、大躍進したかに見える日本の産業文明の総展示ともいえる「万博」は大阪で開かれた。その万博の政府館に二つのタペストリーが飾られた。一つのタペストリーは、原子力が軍事利用された場合の惨禍を現わすものとして、広島の原爆ドームが織り出されたもの。もう一つのタペストリーは、原子力平和利用のバラ色の未来を表現するものとして、バラ色のタペストリーが豪華に織り出されたものであった。
 この二つのタペストリーは、原子力の「軍事利用ノー、平和利用イエース」という、当時の国民のコンセンサスを示すものとも見えるが、実際には、それは政府や産業界がこれから進めようとする原子力の平和利用という名の「原発」推進の大方針を国内外に宣言するものであったとも思われる。
 「軍事利用ノー、平和利用もノー」という原子力に対する絶対否定の態度は、まだまだ思いもよらぬことであった。


・ソ連の核実験

 原子力の軍事利用は否定し、平和利用は肯定するという、原子力に対する国民一般の態度は、日本の原水禁運動が起こってから数年間は無事に続いていた。ところが、軍事利用否定の根底に大きな亀裂を生ずる事件が起こった。
 その発端は、一九六一年(昭和三十六年)八月三十一日にソ連が核実験再開の決定を発表したことにあった。その直前、八月半ばの第七回原水爆禁止世界大会の決議では、米国の実験再開の動きを強く警戒して「こんにち、実験を再開する政府は平和の敵、人類の敵として糾弾さるべきである」と表明されたばかりのところに、ソ連が最初に実験を再開してしまったのである。それだけに衝撃と困惑は、いっそう大きかった。

 八月三十一日(木)の日記
「ソ連核実験再開声明(モスクワ放送)、大きなショックと怒り。夜、県原水協担当常任理事会に於て、ソ連政府宛て再開中止要請電報を発し、理事長談話を発表して県原水協の態度を明らかにし、県民に奮起を促す」

 九月一日(金)の日記
「・・・夜、実験再開についてのソ連の声明全文を読む。再開せざるを得ない情勢と第三次大戦の勃(ぼっ)発を防ぐためという趣旨であるが、すべてこれ口実のみ。人類の立場は全然考えられていない。やはり人道への反逆である。『力』を信ずるものの犯すあやまりである」

 九月三日(日)の日記
「緊急課題としてソ連核実験再開問題。激論たたかわされ、結局は次の四項にまとまる。

  1. ソ連の核実験再開に強く抗議する。
  2. さらにその背後にある国際情勢を考え第三次大戦防止のため軍備全廃の運動をさらに推進する。
  3. 国連や非同盟諸国首脳会議(ベオグラード)に核実験中止をはたらきかける。
  4. ソ連以外の核兵器保有国が連鎖的に実験をしないように各国に要請する。・・・

 夜七時から平和会館で今日の会議から託された四項の処理。その第一項目のソ連政府への抗議文作成。その討議の中でH氏がソ連声明支持を表明し、抗議文に態度保留・・・」

 十月十四日(土)の日記
「・・・夜、共産党広島県委員会よりM氏とY氏が代表として来訪、申入書提出。・・・ソ連核実験再開を支持することこそ今の正しい平和運動であるから県原水協のこんどの集会(十月二十三日)でもそうなるようにしてもらいたいという趣旨・・・」

 思えば、これから後三年間が日本の原水禁大会のいわば煉(れん)獄の歳月であった。その間に大衆討議で練り上げられた「原水禁運動の原則」もできた。国民の良識の結晶のような「二・二一声明」も出た。しかし、いずれも無残にじゅうりんされて焼津も広島も、長崎も、すさまじい混乱と分裂の場面となった。三つの被爆地は結束して奮起せざるをえなかった。やがて原水禁国民会議の誕生ともなった。あの人類史上空前の国民的体験から、いかなる国の、いかなる理由による核実験も核兵器も絶対に是認、肯定することはできないという、核絶対否定の思念と行動以外はありえなかったのである。


・核なき未来

 「核絶対否定」の立場で三県連が立ち上がり、その翌年、すなわち被爆二十周年(一九五六年)に原水禁国民会議が出発した。しかし、そのころ使われた「核絶対否定」という表現は、単に「核兵器絶対否定」の略語であって、今日、私たちが文字通り「核絶対否定」というのとは大きく違っていた。
 今日の私たちは「核なき未来」をめざして、文字通り「核絶対否定」の立場に確固として立つのである。
 今堀誠二氏の名著「原子力時代」は「原水爆時代から原子力時代へ」をめざしているのであるが、今日の私たちは、その「原子力時代」をも否定して、「核なき未来」へ超え出ようとしているのである。
 原水禁国民会議が「核兵器絶対否定」から文字通りの「核絶対否定」に到達するには、約七、八年の歳月を要しているのである。そこに到達する私たちの核認識の推移をたどってみると、その要因は、やはり「放射線害」の認識が、深刻かつ痛切になってきたことにあるのではないかと思われる。
 被爆二十・二十一・二十二周年の原水禁大会あたりでは、まだ核兵器、核使用の恐ろしさは万人の認識となっても、「放射能害」の恐ろしさは、主として原爆被爆者の苦しみや不安に接する形で人びとに知られ伝わっていた。
 被爆二十三周年の原水禁大会になると、その大会基調の中に「世界各地に続発する放射能害」という項目が設けられて、平常時でも核兵器の存在ゆえに、かくのごとく放射能害が起こっている、と警告した。すなわち国内では、佐世保で米原潜ソードフィッシュによる異常放射能で、「この魚には放射能はありません」という貼り紙が魚屋の店頭をかざるなど、放射能害についての市民の大きな反応を呼び起こしたり、六月二日には、九州大学に四千キューリーの放射能がはいったコバルト60照射実験室がある近所に、米軍のF4Cファントム先頭爆撃機が墜落したりした。
 一方、国外では、十四年前のビキニ水爆実験の死の灰を浴びたロンゲラップ島の住民の子どものうち、当時十歳以下だったものの九割が甲状腺機能障害を起こしていることや、一九六一年以降、アメリカの原潜基地として使用されてきたホーリーロッホ港の海底土に増加した放射能は、米原潜の放出した冷却水によるものであることがイギリス海軍によって確認されたことや、アメリカの水爆搭載機B52が墜落したスペインのパロマレスでは、放射能害により住民や家畜に奇病が発生していることなどを挙げて、「このように放射能災害は世界各地で続発しています。いまや、たとて核戦争が起こらなくても、世界中に張りめぐらされた核兵器が世界各地で放射能害をまきちらし、人類の生存に重大な危害を及ぼしはじめています・・・」と。
 「放射能害」を重大視するようになった原水禁国民会議は、ついに翌被爆二十四周年(一九六九年)原水禁大会ではじめて「原子力の『平和利用』問題」を掲げた。そこでは平和利用の問題点がかなり詳述され、その結びに「私たちは軍事利用反対の立場を堅持した運動を推し進めるとともに、それに劣らない重要問題として『平和利用』を重視し、広範な国民運動にしてゆくことを、とくに今年の重要課題に設定したいと思います。このためにも、私たち自身もう一度、問題を真剣に学習し直し、自然科学的観点からみても、国民を啓蒙できる知識と能力を備えつけなければなりません」と。
 ともかくも被爆二十四周年から、はっきりと平和利用問題の学習にとりかかったのである。


・科学者の良心

 被爆二十四周年原水禁大会(一九六九年)から、重要な課題として原子力の平和利用問題に取り組み始めた原水禁国民会議は、翌年の被爆二十五周年の大会で、その基調にはっきりと「原子力発電所問題」を提言し「原発問題分科会」を設けた。そして、次の被爆二十六周年(一九七一年)の大会には、初めてスローガンの一つに「安全の保障されない原子力発電所、核燃料再処理工場設置には反対しよう!」を掲げた。
 この年、一九七一年五、六月、私は原水禁オルグとして世界一周の旅をした。社会党政審勤務の丸山君が同行してくれた。主目的は「四月二十四日行進」という米国史上最大の反戦集会(ワシントン)に出席して、「ベトナムで戦術核兵器を使うな」と訴えることであったが、もう一つの目的は、原発について憂慮する学者を歴訪し、その意見を聞いたり資料を集めたりすることであった。
 この旅で歴訪したスタンフォード大学のポーリング博士、ロンドンの聖バーソロミュー病院の附属医学校のパトリシア・リンドップ教授、パリのカーペンティエル博士(医学)、およびポーリング博士の紹介で後に相識るようになったゴフマン、タンプリン、イングリスの三博士との出会いは、原水禁国民会議の原発問題への取り組みに深く大きな原動力となった。
 私は、サンフランシスコからワシントンへの機上で、ポーリング博士から贈られた小論文の抜刷を読んだ。題目は「高エネルギー放射能の遺伝的・身体的影響」というのであったが、内容は、ゴフマン博士とタンプリン博士の共同論文を支持する論文であった。ゴフマン、タンプリン両博士は、連邦放射線審議会が年間に受ける放射線の許容量を百七十ミリラドとしているのを反駁(ばく)して、その十分の一の十七ミリラドにすべきである、との趣旨を展開していた。ポーリング博士は、これを支持したうえでさらに論旨を進め、「許容量というごとき”敷居”は存在しない。少なくとも遺伝の問題では」と主張しているのである。
 ロンドンでリンドップ教授を訪れたのは、前年(一九七〇年)の第二十回バグウオッシュ会議で原子力平和利用からくる公害について意見発表したリンドップ教授の発言、とくにその結びで「目にも見えず、鼻にも喉(のど)にも感じないけれど、放射能汚染は不具の子を、そしてガンの患者を増やしつつある。この恐るべき事態の進行を隠しておくことは科学者の良心が許さない」と言ってたのが最も感動的であった、と坂本教授が「世界」(一九七一年三月号)で報告しておられるのを読んで、早くから連絡をとっていたからである。
 リンドップ教授は、この発言の原稿を日本語訳して運動に利用することを快諾したばかりでなく、日本でバクウオッシュ会議の学者や運動団体の人びとが協力し、近い将来に原子力平和利用に伴う放射能害の国際シンポジウムをやるようにしてはどうか、と積極的な提言さえしたのであった。
 パリのブーテロー夫人宅で語り合ったカーペンティエル博士も環境汚染、とくに放射能汚染に熱心に取り組んでいる人であった。博士は、原子力平和利用の公害問題をはじめ種々の汚染問題について、秋ごろに国際的なシンポジウムを開きたい、と語った。帰国後まもなくそのシンポジウムへの出席要請の手紙がきたが、どうにもならなかった。しかし私は、この旅行で原子力平和利用に伴う公害問題で欧米の心ある学者たちが真剣に考え行動し始めていることをじかに知ることができた。
 原水禁国民会議が「最大の環境破壊、放射能公害を起こす原発・再処理工場設置に反対しよう!」というスローガンを掲げたのはその翌年、被爆二十七周年大会においてであった。


・反原発の理論

 被爆二十七周年大会(一九七二年)で「最大の環境破壊・放射能公害を起こす原発、再処理工場設置に反対しよう」というスローガンを掲げたのは、私たちの核認識がそこまで進んだということもあるが、国内では「高度経済成長」のなかで環境破壊や公害の問題がいよいよ深刻化してくるとともに、世界では同じ年の六月にストックホルムで「国連人間環境会議」が開かれるという背景もあったのである。
 国内では、とくに原発設置反対の現地の住民運動があちこちに起こり、それを横につなぐ全国連絡会議の必要が起こり、「情報センター」の必要性も起こり、学者・専門家の助言・協力の必要性も切実に起こっていた。原水禁国民会議は、そんな必要性に対応する態勢をこの年あたりから取りはじめていたときでもあった。
 この年の国際会議(一九七二年)には、前年から予約していたゴフマン教授は身辺の都合で出席できなくなったが、入念なレポートを送ってくれたし、日本側からは辻一彦参院議員が「わが国における原子力発電所の問題点」という詳しい報告をした。とくに忘れがたいのは、この年のコルビー女史の発言であった。そのなかでコルビー女史は言った。「過去において成功とは、核兵器の全面的かつ恒久的な廃絶を究極的になしとげることを意味しました。今日、成功とは、戦時、平和時を問わず原子力が使われることによって生ずるすべての放射能の廃棄をめざして成果をあげることを意味しております」と。軍事利用、平和利用ともに否定すべき方向を提唱したのである。そして「危機に陥っている惑星の市民として暗闇の谷間から真実の進歩の高原に通じる道を示さなければなりません。そのときこそ私たちは、原子力がもはや『人類の輝かしい夢』ではなく、むしろ悪夢であることに気づくでありましょう」と結んだ。コルビー女史が原水禁国民会議の「核絶対否定」に深く共鳴し、一貫して支持・協力する理由がここにある。
 翌年、被爆二十八周年(一九七三年)の原水禁大会には、ゴフマン博士に代ってその盟友アーサー・タンプリン博士が来日した。博士は単に国際会議に出席するだけでなく、その前に一週間ばかり、日本各地の原発設置個所を精力的に視察したり住民運動と交流したりした。そして、国際会議では、タンプリン博士の特別講演が重要な内容となった。それ以後、この講演は、わが国の原発反対運動の基本理論を構築していく出発点ともなった。
 私は、心ある人びとに、いまの時点でのあの講演(被爆二十八周年大会報告決定集の付録資料)をもう一度あらためてじっくりと読みかえしていただきたい。少なくとも私にとっては、博士が原子力賛成派の一人であるワインズバーグ博士の言葉を引用している個所の「軍事的聖職者」という言葉に出会うとき、核時代に生きる私たち人類全体の生存のカギを握っているものの姿を見ないわけにはゆかないのである。そして、タンプリン博士は、平和利用にも同様の聖職者を必要とするほどの危険性があることを警告するのである。
 ここで博士は、「原子炉は、いまだかつて人類が経験したことのないような大事故の可能性をもっている」とし、炉心溶解による大量の放射能流出を語る。そして、この種の事故を防ぐものとしての緊急炉心冷却装置(ECCS)も、その実験はまだすんでいないことを語る。
 さらに、博士が力説したのは原子炉が大量につくりだす放射性物質の問題、放射性廃棄物の究極的処理の未解決の問題、最後に、最大の問題としてプルトニウムの軍事転用と核拡散の問題はもとより、その絶望的な猛毒性の問題、その管理のために私たちの子孫が永久的にこうむる重圧の問題−。原発反対の基本論理は、ほとんど解き尽くされたのである。 なお、博士は最後にミクロネシアのロンゲラップ、ウトリックの島の住民の問題にふれ「放射能は、いまなおこれらの島に残っている」と警告した。


・欧州の運動

 被爆二十九周年(一九七四年)の原水禁大会にはタンプリン博士に代ってD・イングリス博士が来日した。米国物理学会の長老学者。それが熱心な原発反対論者なのである。イングリス博士は、まず原発の材料であるプルトニウムをつくりだし、従って究極的には核戦争の可能性を大きくすること。また、プルトニウムの微小な一粒といえども肺臓ガンを生ずることを述べたあとで、二つの問題を提起した。
 「私は、ここで二つの重要な点を強調したいと思います。第一に原子炉内の大量の放射能がいっきょに放出された場合の危険性です。もうひとつは、将来の電力需要を満たすには別のもっと良い方法があるということです」第一の危険性について、博士は「ラスムツセン報告」の楽観論を鋭く批判したが、最近のスリーマイル島原発事故は、博士の心配通りの危険性を世界に示した。
 第二の核エネルギー以外に別のもっと良い方法として博士が提言したのは、「太陽エネルギー源、砂ばくの大型太陽ファーム、風力、海洋温度差」など。そして博士は「これは原子力を時代遅れのものとし、その危険からのがれるひとつの道とすべきです」と結んだ。
 実際、前年(一九七三年)のオイル・ショック以来、石油に代わるエネルギー源は、核エネルギー以外なしとして原発建設推進が大きなうねりとなってきた時期の原発反対でなければ説得力はなかった。
 最近、イングリス博士は「風力」(Wind Power and other energy options, 1978 ミシガン大学出版)という著書を送ってくれた。全く実用的な提言である。
 同じ被爆二十九周年(一九七四年)の初夏、私は南太平洋ムルロア環礁での核実験に抗議するためフランスに行った。新しく大統領に選ばれたばかりのジスカールデスタン大統領にじか談判する目的は果たされなかったが、私は、フランスの反核平和運動の象徴であるド・ボラルディエール将軍をブルターニュに訪ねて相識った。ボラルディエール将軍は前年、他の十人の同士とともに抗議船に乗り組み、ムルロア核実験抗議行動に出かけた人で、将軍の称号も最高勲章も返上した。ただ、カトリック信者の良心で行動する人で「爆弾に反対するフランス人連合」の会長であった。
 ところが、私が訪れたころの将軍は、フランス各地で巻き起こっている原発反対の住民運動を激励・指導して東奔西走し、寧日なき人であった。住民闘争のいろいろな形態や実例を、私は将軍からつぶさに聞いた。
 ボラルディエール将軍とともに抗議船に乗り組んだラロンド青年も、原発反対で忙しく動いている「地球の友」の活動家であった。たびたびパリの宿舎を訪れて来てフランスの原発反対運動の様子を語り、近くオルレアンで催される原発反対運動の大集会に出席してくれ、と懇請した。日程の関係で応じられなかったが、私は、この旅行でフランスをはじめヨーロッパ各地に巻き起こっている原発反対運動にじかに接したのである。
 妙なもので、私は先年来、日本各地で起こっている原発運動にも、より切実に考えさせられるようになった。前年(一九七三年)、伊方の人たちがついに踏み切った伊方原発訴訟のことも決してひとごとではなくなってきたのである。
 ブルターニュで相識ったボラルディエール将軍も来日したので、被爆二十九周年原水禁大会(一九七四年)では、イングリス博士とボラルディエール将軍の同席が私にとっては大きな意味をもち、核絶対否定の気持の中でこの二人の真摯(し)な姿が、いつも浮かび現われるのである。
 この年の大会スローガンの第三項は、
「三、究極公害放射能汚染につながる原発・再処理工場設置に反対しよう!

  1. 放射能公害を招く原発の乱造を許すな!
  2. 欠陥原発は、ただちに運転を中止せよ!
  3. 原発裁判を勝利させよう!」
となっていた。


・太平洋の叫び

 被爆二十九周年原水禁大会(一九七四年)に来日したド・ボラルディエール将軍に同伴してきた、フランス国会議員サンフォード氏(仏領ポリネシア選出)の熱心な要請で、私は翌年の春、南太平洋フィジーの首都スバで開かれた「非核太平洋会議」に出席した。  フィジーの南太平洋大学を会場として開かれたこの会議で、私は原水禁運動にひとつの新たな展望をもつようになった。なにしろ核時代の出発点から核被害の集中した太平洋地域の人びとがはじめて立ち上がり、苦しい準備を重ねてやっと開いたこの会議は、大きなものではなかったが、あまりにも多くの学ぶべきことがあった。
 もちろんこの会議の主目的は、太平洋非核地帯設置の問題であり、それと切り離せない問題としての太平洋諸民族の独立の問題であった。
 太平洋の非核化を求めて、

  1. 核兵器、核爆発装置、核運搬手段などの実験の禁止
  2. 太平洋における核兵器の貯蔵運搬の禁止
  3. 核兵器の指令、あるいは中枢的な施設の禁止
  4. 諸政府に対し、原子力をやめ、他のエネルギー源を採択するよう要求
  5. 太平洋での原潜を含め原子力船の存在に反対、放射性廃棄物の投棄に反対

という諸決議に集約されるまでの多くの報告や訴え、討議はまことに痛切なものであったが、そのなかで私にとって最も忘れがたいことが二つある。
 ひとつは、この会議で原子力平和利用の問題が、なぜあんなに熱心にとりあげられたかということであり、もうひとつはオーストラリアの原住民の娘さんがウラン採掘に抗議して鋭く訴えたことである。
 平和利用という名の原子力発電の最も困難な問題は「放射性廃棄物の究極的処理」の問題である。なんとかせねばならぬことがどうにもならぬままになっているのである。太平洋地域の人びとが最も心配しているのは、その究極的処理の場が太平洋に求められるのではないかということである。だれもがいやがる核実験を、ほとんどすべて太平洋にもちこんで強行した核大国たちが、最もやっかいな放射性廃棄物の捨て場をまたもや太平洋に求めるのではないか、現にマリアナ海溝は一万一千メートルの世界最深の海溝である。そこらあたりがねらわれているのではないかと心配しているのである。
 果たせるかな最近、国際的核エネルギー政策のために、核燃料の供給と再処理、核廃棄物の貯蔵と処分を行なう国際的パークをミクロネシアに建設しようという計画がもちあがっている。
 私は、かつてオーストラリアの原始社会の関心をもち、少しばかり勉強もしてみたことがある。「現代における石器時代」という書物もあるほどに、世界で最も原始的な民族と考えられていた。ところが、そのオーストラリア原住民(アボリジニーズ)の娘さんが立ち上がって訴えたことがいちばん忘れられないのである。つらだましいのあるがっしりした身体の娘さんで、その名はたしかシリエル・ブハナン嬢だったと思う。シリエルさんは訴えた。ウラン鉱山は、私たちの祖先の聖地にある。その聖地がとりあげられ、私たちの同胞の無知をよいことにしてウラン採掘の最も危険な所で低賃金で働かされているのである、と。
 今日、同じことが米国の原住民インディアンの居住区でも起こっている。米国でもウラン鉱の多くがインディアンの居住区にある。ニューメキシコ州やアリゾナ州などでインディアンの人びとがウラン採掘や精製所に強く反対していることを聞くにつけても、私は四年前、フィジーの会議で叫んだアボリジニーの娘さんのはげしい気魄を思い、核絶対否定の気持のゆるみをムチ打たれるのである。


・生存のために

 フィジーの非核太平洋会議から深い感動と決意をもって帰国した私は、その年、被爆三十周年(一九七五年)の原水禁大会の基調演説で、ついにきっぱりと文字通りの「核絶対否定」の立場を打ち出した。国際会議での問題提起的な演説の草案は例年のように事務局で用意されたが、そのなかに「核分裂エネルギーを利用する限り、人類は未来を失うであろう」という一句があった。私は、電話で起草者の池山君とこの一点について打ち合わせ、覚悟を決めた。そして、大会基調演説の草案を精魂こめて書いた。その演説の後半は、いわば「核絶対否定」の宣言であった。
 いわく「さて私たちの運動は、広島・長崎の体験から『核兵器絶対否定』の運動として起こりました。従って初期の段階では、私たちも核エネルギーの平和利用のバラ色の未来を夢みました。しかし今日、世界でほとんど共通に起こってきました認識は、平和利用という名の核エネルギー利用が決してバラ色の未来を約束するものではなくて、軍事利用と同様に人類の未来を失わせるものではないかということであります。
 つまり、平和利用という名の原子力発電から生ずるプルトニウムは、いうまでもなく長崎型原爆の材料でありますから、軍事利用に転用される可能性があることは明白であります。またプルトニウムは、半減期二万四千年というもっとも毒性の強い放射性物質でありますから、まことにやっかいきわまるものであります。しかも、それは天然自然にあるのではなく、全く人工的に生産されるものであります。ですから、原子力発電がたとえ安全であるとしても、そこでは多量のプルトニウムと放射性廃棄物が生産されるのであります。しかも、その放射性廃棄物の究極的処理の道はまだ解決されておらず、解決の見込みもないといわれています。
 こんな状態で、人類のエネルギー源は、核分裂エネルギーに求めるほかないといって原子力発電所をこぞってつくり、そこからプルトニウムと放射性廃棄物を莫大に出し続けるということになれば、そのゆきつくところはどういうことになりましょうか。  核分裂エネルギーにたより続けたら、この地球全体がプルトニウムや放射性廃棄物の故に人類の生存をあやうくされるのであります。
 私たちは今日まで核の軍事利用を絶対に否定し続けて来ましたが。いまや核の平和利用と呼ばれる核分裂エネルギーの利用をも否定しなければならぬ核時代に突入したのであります。しょせん、核は軍事利用であれ平和利用であれ、地球上の人間の生存を否定するものである、と断らざるをえないのであります。結局、核と人類は共存できないのであります。
 共存できないということは、人類が核を否定するか、核が人類を否定するかよりほかないのであります。われわれは、あくまで核を否定して生き延びなければなりません。
 核兵器を絶対否定してきた私たちは、平和利用をも否定せざるをえない核時代に突入しているのであります。『核兵器絶対否定』を叫んできた私たちは、いまやきっぱりと『核絶対否定』の立場に立たざるをえないのであります。『平和利用』という言葉にまどわされて『核絶対否定』をためらっていたら、やがて核に否定されるでありましょう。
 先日の国際会議で私があえて提起したテーゼは、『核分裂エネルギーを利用する限り、人類は未来を失うであろう』ということでありました。くりかえして申し上げます。『核分裂エネルギーを利用する限り、人類は未来を失うであろう』と。
 人類は未来を失ってはなりません。未来の偉大な可能性を確保しなければなりません。私は被爆三十周年のこの大会で、全世界に訴えます。
 人類は生きねばなりません。そのためには『核絶対否定』の道しか残されてはいないのであります。」


・核文明批判

 広島原爆で一眼を失った秋から冬にかけて、中国山地の眼科医院で入院生活をしていたころ、私の胸中には一種の素朴な文明批判が芽ばえていた。いったい、原爆などというものを生み出すような現代文明の方向は、このまま進んでよいものであろうか。この方向では人類は自滅を招くのではないかと。
 しかし、その後三十年間に、私たちの憂慮や批判や抵抗をあざ笑うかのように、軍事利用でも平和利用でも核の開発はすさまじく進められた。核兵器の備蓄は、広島型原爆に換算してその四百万発分に相当するといわれ、産業用のエネルギー源も主として核に求められようとする核時代に突入した。
 政府や産業界は「軽水炉→増殖炉→融合炉」という図式で核エネルギー開発の展望を宣伝し、二十一世紀はあたかも壮大な核文明の華麗な世紀として迎えられるかのような夢をいだかせようとする。
 しかし、そのような核文明の方向は人類にその未来を失わせるものである、と警告し、核と人類は共存しえないものと見定め、「核絶対否定」の決意と行動で人類の生存を守ろうとするのが私たち原水禁運動である。
 被爆三十一周年原水禁大会(一九七六年)の基調演説の結びで私は、核時代の産業文明を批判し、非核文明の二十一世紀を迎えるべきであることを訴えた。いわく、
 「・・・もっとも心配なことは、プルトニウムを燃料とする高速増殖炉の開発によってプルトニウム経済の時代を招来するのだ、と豪語しているものがありますが、そんな巨大エネルギー、巨大産業の核文明を招来したら、その絶頂で、その未来を失うでありましょう。
 巨大エネルギー、巨大開発、巨大生産、そして巨大消費という形態をとる核時代の産業文明は、いまこそその価値観を一大転換しなければなりません。価値観の転機とは何か。一言でいえば、すべて巨大なるものは悪であり、のろわれたるものである、いと小さきもの、いとつつましきものこそ美しいものであり、よいものであるということであります。シューマッハー博士の言葉を借りると”ビッグ・イズ・イービル(悪)、スモール・イズ・ビューティフル”ということであります。
 私たちは巨大なる核エネルギー産業文明によって子孫のものまで使いはたし、プルトニウムのようなやっかいきわまる遺産を子孫に残すべきではありません。
 いま私たちは、二十世紀の最後の四半世紀にさしかかりました。この四半世紀こそ、人類が生存への道を選ぶか、死滅への道を選ぶか、最後の機会であります。私たちは、やはり生存への道を選ばなければなりません。二十一世紀に生き延びなければなりません。生き延びる道は何か。核絶対否定の道しか残されてはいません。核は軍事利用であれ平和利用であれ、絶対に否定するよりほか、人類の生きる道はないのであります。いまこそ価値観を大転換させ、核文明を否定して非核文明をきずき、人間の深い、美しい生きざまをひらいていこうではありませんか」と。  ここでいう非核文明の方向をひらいてゆくためには、大まかにいって二つの道がある。一つはイングリス博士が提言するように、核エネルギー以外の代替エネルギーを開発する道である。太陽熱、風力、地熱、潮位の差を利用する発電である。
 もう一つの道は、人間の生きざまを「自然易簡」の道にかえすことである。「自然征服」の思想と生活から「自然隋順」の思想と生活にかえることである。
 私は昨年(一九七八年)、国連訪問後、ニュー・ハンプシャー班に加わってアマーストを訪れ、イングリス博士に再会して相語り、アマースト郊外のモンタギュー村で「自然農場」を営むラヴジョーイさんを中心とする九人の同志の新しい生きざまの探求に感動した。アマースト訪問で、私は非核文明のビジョンを得たのである。

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