資料
( 1978 )

(1978年6月原水禁発行のパンフレット本文)

原水禁運動の歴史と教訓

―核絶対否定の理念をかかげて―


目次

はじめに

一、戦後世界の核軍拡競争

二、原水禁運動の爆発的発展

三、運動内部の混乱

四、「いかなる……」の原則をめぐる運動の分裂

五、運動再建の努力と原水禁の結成

六、被害の“原点”に依拠する運動

七、沖縄返還と核基地撤去闘争

八、核の被害はいまなお続く

九、核武装阻止と反原発の闘い

一〇、被爆者救援法運動の発展

一一、反核運動は進む


はじめに

 1945年8月、アメリカが広島・長崎に原爆を投下してから、人類はこれまでに体験したことのない全く新しい時代に入った。つまり”核の時代”に入ったのである。

 人類は核エネルギーという”第二の火”を灯した結果、逆にその恐るべき危機の前におののかなくてはならなくなった。原爆は驚くべき爆発力をもつとともに、爆発に際して放出する放射性物質からの被害ももたらす。この放射線こそ、各種ガンやその他晩発の被害をもたらし、今日にいたるまでなおヒロシマ、ナガサキの原爆被害者を苦しめているのである。

 原爆の出現は、世界の政治も大きく変えてしまった。その破壊力を戦争に使用とすれば、もはや二国間の戦争を前提とする政治は非現実的となってきた。世界的戦争、国際的な大型戦争が各国の戦略の中心に据えられてくる。しかも核兵器を生産し、常備しようとすれば、厖大な軍事予算と巨大な兵器の研究・生産の体系をつくらなくてはならない。

 大国と中小国との差が核兵器中心の軍備では、はっきりしてくる。このために、社会主義体制と資本主義体制はそれぞれ軍事同盟・ブロックを結んで自国の”防衛”を考えようとするにいたる。

 核兵器はこのような世界政治の変動をもたらしたばかりでなく、各国における国内の政治も変えた。核兵器の破壊力は戦闘員と非戦闘員を区別しないし、人類に対して全面的な被害をもたらしかねない。このために逆に核戦争を阻止しようという動きは、革新派や労働者だけではなく、科学者や技術者のなかからも、婦人や青年の間からも、一般市民からも生じてくる。つまり、イデオロギーの相違や政治的信念の違いといったものを超えた“超党派”的人類的な反原爆の運動が発生する基盤ができたのであった。この点こそ、これまでの平和運動と原水爆禁止運動の根本的違いであり、核兵器反対という一点で人類が結びつけられ、連帯する条件が生まれたことを意味する。

一、戦後世界の核軍拡競争

ヒロシマ、ナガサキへの原爆投下

 第二次世界大戦中、アメリカが原爆の開発にのりだした理由はいくつかあるが、最も重要な動機は”ドイツ・ナチズムが核兵器を先に作ってしまうかも知れない”ということだった。ナチスが原爆をもてば、世界は決定的な破壊に見舞われるであろう、その前にアメリカは原爆をもたなくてはならない。こうした雰囲気がアメリカをとらえていった。

 そこで重要な役割を果たしたのは、ヨーロッパからアメリカに亡命してきた科学者たちであった。レオ・シラード、エンリコ・フェルミたちはアインシュタインを通じてルーズベルト大統領に原爆の製造を働きかけた。こうしてマンハッタン計画が決定された。

 だが、アメリカが実際に原爆を完成した1945年6月には、ドイツはすでに敗北していた。そこで原爆の投下目標は日本にむけられるに至ったのである。歴史の不幸はこのときに始まった。

 しかしながら、日本への原爆投下をためらう動きもあった。最初、原爆製造を進言したレオ・シラードは、今度は日本への原爆使用に反対する請願書をつくった(1945年3月)。68名の科学者の署名を得たこの請願書がワシントンに送られたが、効果はなかった。

 この訴えは、原爆投下がまず道徳的に非難されるであろうことを強調するとともに、原爆使用は世界各国――特にソ連の原爆研究・生産を促し、果てしない核軍拡戦争にとつにゅうしてゆくことを恐れていたのであった。

 その後の事態は、L・シラードの予測通りに進んだ。ソ連はたちまち原爆をつくりあげ、さらに水爆を開発した。水爆で遅れをとったアメリカは水爆開発に全力をあげる。(水爆開発では、エドワード・テラーらが強硬派であり、オッペンハイマーなど良識派はこれに反対していた)

 国連において原爆を国際管理下におこうとした努力も水泡に帰していた。(バルーク案をめぐる米ソの対立)

 第二次大戦後の核軍縮戦争はこうして、核兵器を中心にして推進され、核実験があいついで強行された。”死の灰”は遠慮なく大気中にばらまかれ、地球全体を汚染しつづけた。わが国の原水爆禁止運動発展の最初の契機となったアメリカのビキニ環礁(ミクロネシア)における水爆実験はこのような状況のなかで行なわれたのであった。

核・ミサイル開発と戦争の性格変化

 1957年に入ると世界の核軍拡競争はさらに新しい段階に入る。イギリスが太平洋条のクスマス島で核実験を行ない、新しい核軍拡を開始した。この年の10月にはソ連がスプートニク(ICBMの完成を示す)を打ちあげ、核兵器の運搬手段の開発競争による新しい軍拡競争の時代が訪れる。いまや軍拡競争は「核・ミサイル」戦争に時代に入った。このことは戦争の性格・概念も根本的に変わってきたことを意味するのである。ICBMは約30分で地球の裏側に達するから、人類の大半が死滅し地球全域が破壊されるような戦争が、僅か30分間で終了するといっても過言ではない状態になったのである。

 だが、このような新しい核軍拡競争の展開は、心ある人びとを核実験禁止、核兵器禁止へとかりたてずにはおかなかった。

科学者の核兵器反対運動の発展

 1955年にはすでに核兵器の全面禁止を訴えた「ラッセル・アインシュタイン声明」が発せられた。57年4月になると西独の著名科学者18名による”核兵器製造に協力しない”という「ゲッチンゲン宣言」が発表され、同じ年の7月には東西両陣営の科学者が参加した「第一回パグウオッシュ会議」が開かれ、今日に至るまで続いている。

 57年にはA・シュバイツアー博士がオスロー放送を通じて核実験の危険性と核戦争の危機を訴えていた。ライナス・ボーリング博士も核実験による”死の灰”で「1万人の新生児に身体的精神的欠陥を生じさせるだろうし、10万人の胎児・幼児死を惹き起すだろう」と警告した。ソ連の”水爆の父”といわれるアンドレイ・D・サハロフ博士もこれらの動きを見守っていた。「アルバート・シュバイツアーやライナス・ボーリングなどによる声明の影響もあって、彼(サハロフ)は自分自身にも核爆発による放射線汚染の問題にかんする責任があるように感じた。一連の核実験が行なわれるたびごとに、何万もの犠牲者がでることになるからである」(『みすず』74年5月号)。サハロフがフルシチョフ首相に核実験停止の勧告や働きかけを始めるのもこの頃である。

 1958年からソ連は全面的な平和攻勢に転じた。この年の3月には核実験の一方的停止を宣言し、米英への同調を求めた(但し実際には不成功)。さらに59年9月にはフルシチョフが自らアメリカにのり込み、アイゼンハワー大統領とキャンプ・デービット会談を行ない、次いで国連総会で“四年間で軍備を全廃する”提案を行なった。ソ連の平和攻勢でにわかに緊張が緩和し、核兵器禁止も間近かとまで思われたが、1960年のアメリカのスパイ飛行機U2機事件で局面は暗転してしまう。

 1961年夏にはソ連は「ベルリン危機」を理由にした一連の大型水爆実験を開始し、これが原水爆禁止運動混乱の発端となった。62年には、わざわざ原水禁世界大会に日を合わせて水爆実験をやるという無神経ぶりであった。

 「1962年には、技術的な見地からは無用な核爆発の実験がなされることになったので、サハロフはこの計画の犯罪的な性質を悟って、阻止のために数週間にわたり必死の努力をした。実験の前日にはフルシチョフに電話をかけて実験とり止めを要請したがすでに爆弾搭載機は実験予定地に出発した後だった」。(前掲『みすず』)

 だがこの間にもパグウオッシュ会議に結集した科学者たちは、“地上のいかなる地点で行なう核実験も技術的に探知できるから、速やかに核実験停止条約を締結せよ”と結論を下し、各国政府に働きかけを行なっていた。

キューバ危機と部分核停条約

 1962年10月のキューバ危機は第二次大戦後の最大の危機であり、まさに全面核戦争寸前のところまでいった。ソ連がキューバにすでにミサイル基地を建設していることを発見し、さらにソ連船がキューバむけミサイルを運んでいるのを発見したアメリカはこれを阻止するために“海上封鎖”の挙にでた。ソ連はこれに抗議したが、ケネディ大統領はミサイル基地撤去を頑として主張し、それなしには核戦争も辞せずという、いわば”最後通牒”を発したのだった。世界各地ではこの行為に激しい抗議の声がまき起こった。バートランド・ラッセルはケネディ、フルシチョフ、ウ・タント国連事務総長に電報をうち続け、核戦争勃発の危機性を訴えた。やがてソ連は“アメリカがキューバ侵攻を行なわない”ということを条件にしてキューバのミサイルを撤去することになった。もしもフルシチョフが強気にでればただちに核戦争になったであろう。

 後日、ジョン・サマビルは次のように書いている。

「ケネディ大統領の国家安全保障会議執行委員会(EXCOMM)は、“もしソ連がキューバのミサイル基地を撤去するか、破壊してしまうかするのでなければ、直ちにソ連に対して開戦する”ことを決めたのだった。……その決定を行なった人たちは、この最後通牒にソ連政府が同意するなどとは毛頭期待せず、また、戦争がもたらす結果についても、はっきり知っていたにもかかわらず、なおそれをやったということである。言葉をかえていえば、決定を行なった人々の明らかに予見したことは、おそらくソ連は抗戦するであろうし、またその戦争が、必ずや世界規模での核戦争となり、人類は事実上抹殺し去られるだろうとの見通しであった」と(ジョン・サマビル『人類危機の十三日間』岩波新書)。

 だが、フルシチョフの妥協(好判断というべきか)によって危機はからくも回避された。人類は死の淵に落ちることを逃れたのだった。

 このキューバ危機は、核保有国の権力者に危機意識を植えつけずにはおかなかった。米ソはやがて偶発戦争防止をも保証するホット・ラインを設置することになり、やがて部分的核実験禁止条約の締結を決意するに至る(1963年8月調印)。

 しかしながら、この過程では外交政策をめぐる中ソ間の対立が激しくなり、1959年にはすでに、ソ連は「中ソ国防新技術に関する協定」(57年10月には原爆見本、原爆生産の技術を中国に提供することを約束した)を破棄したのであった。63年の部分的核停条約締結は、この中ソ対立を決定的なものとし、中国も自ら核兵器生産(1964年10月に第1回核実験)にのり出すことになった。そして、フランス、インドがこれにつづくのである。

 アメリカのベトナム北爆が開始された1965年以降、世界の反戦平和運動の焦点はここに集中され、アメリカのベトナム侵略を阻止することが緊急な課題となった。しかしこの間を世界各国の核開発競争が継続しており、フランスも「独自の核抑止戦略」をつくるというドゴーリズムによって核ミサイルの開発を急いできた。

 核兵器とともに核エネルギー「平和利用」ももはや無視できない環境破壊の要素として登場してきた。「核の時代」はいよいよ人類全体を飲み尽くし、放射能による”地球の汚染”という重大問題をわれわれの前に提出している。

 原水禁運動の使命はいよいよ大きいばかりか、もしもこれに失敗するならば、人類に未来はなくなるのである。

二、原水禁運動の爆発的発展

ビキニ事件と放射能の脅威

 日本の原水爆禁止運動は、1954年3月1日、南太平洋ビキニ環礁で行なわれたアメリカの水爆実験を直接の契機としてまきおこった。20メガトンの水爆の実験によって発生した「死の灰」は、100キロメートル離れた公海上で操業していた静岡県・焼津の漁船「第五福竜丸」にふりかかり、これを浴びた23名の乗組員は全員、火傷・下痢・目まい・吐き気などの急性放射線症にかかり、そのうちの一人、久保山愛吉さんは同年9月23日、ついに手当の甲斐なく亡くなった。「死の灰」の恐怖はそればかりでない。「第五福竜丸」の獲ってきたマグロから強い放射能が検出されたため、同海域で獲れた他の漁船の魚類も検査した結果、内蔵に放射能をもつものが発見された。

 焼津、三崎港、東京や大阪の漁市場ではマグロの廃棄処分がつづけられ、魚屋や寿司屋は客が減って“マグロ恐慌状態”が生じた。東京の中央卸売市場はコレラの流行以来はじめてセリを中止するに至った。

また、気流にのった「死の灰」は雨にまじって日本全土に注がれ、イチゴ、野菜、茶、ミルクの中まで放射能が発見されはじめた。こうしていまやアメリカの水爆実験は遠い彼方の問題ではく、身近な日常生活に直結していることを明らかにし、日本国民全体に大きなショックをあたえた。

 そしてこのことが人びとにあらためて「ヒロシマ」「ナガサキ」の原爆被爆の惨禍を思いおこさせる契機となった。アメリカの占領下にあって秘められていた国民一人一人の「戦争はいやだ」「ピカドンはゴメンだ」という厭戦・反原爆感情を一挙に爆発させたのである。

 「原水爆禁止」の署名運動は、全国各地で一斉に開始され、運動は火のように全国津々浦々の町、村、職場に燃え広がり、あらゆる市町村会議で「核実験反対」「核兵器禁止」が決議された。

 そして各地域や職場で自然発生的に始められた署名を全国的に集約するセンターとして「原水爆禁止署名運動全国協議会」が結成され、12月には署名も2000万名を突破した。

原水禁世界大会の開催

 1955年1月、「署名運動全国協議会」の全国大会は、「8月6日に広島で世界大会を開く」ことを決め、5月にはこのための「日本準備会」が結成された。そして広島大会の目的と性格を(1)過去1年間の署名運動を総括し、世界の運動と交流して今後の方向を明らかにする。(2)あらゆる党派と思想的イデオロギー的立場や社会体制の相違をこえて、原水爆禁止の一点で結集する人類の普遍的集会、と規定した。

 そして3000万署名と、1000万円募金を土台に、全国各地域、職場の代表五千名と、社会体制を異にする多くの国々からの代表が参加して、第1回原水禁世界大会が、8月6日広島で開催された。B・ラッセル、シュバイツアー、J・P・サルトルなど著名な人々も全面的にこの大会を支持し、参加した被爆者が「生きていてよかった」と涙をながす光景さえみられた。

 第1回世界大会終了後、「日本準備会」と「署名運動全国協議会」が発展的に統合して生まれたのが、「原水爆禁止日本協議会(日本原水協)」である。

原爆反対の声は政府を動かし、世界に響く

 3000万をこえる「原水爆実験禁止署名」は、これまでの日本の運動では最大の運動であった。これに参加した団体は、労組や民主団体だけではなく、むしろ保守的傾向の強い地域婦人会、青年団も含まれており、地方自治体もぞくぞく反対の決議を行ない、原水禁運動に協力した。また学術団体や社会団体(日赤など)や水産業界もこの運動を支持したのであった。

 これらの世論の高まりは遂に日本政府をも動かすに至った。

 かつて吉田内閣は「日米安保条約のたて前上、アメリカの核実験には協力する」といっていたが、鳩山首相は「原爆禁止に協力する」と言明するにいたった。

 1956年2月には、衆参両院で「原水爆実験禁止決議」が採択され、同年10月には「原水爆禁止全国市会議長会議」が開催され、自治体ぐるみの運動が各地に広がった。

 1955年1月には、ウィーンで世界平和評議会の拡大理事会が開かれたが、これには日本の原水禁運動の代表安井郁氏が招かれ、「原子戦争準備反対の訴え」(ウィーン・アピール)が採択された。いまや核兵器に反対する世界的な連帯ができはじめたのである。

運動の抑圧と分裂の策動

 この後しばらくは、原水禁運動が発展し、1956年、57年と運動は上昇した。しかし日本国内では58年末の「警職法」闘争の高揚が、保守陣営に大きな衝撃をあたえ、それはさらに安保改定交渉と相まって政府・自民党からの逆襲がはじまる。平和運動に対する一連の干渉がそれだ。

 国民的運動に発展した原水禁運動に対しては「特定の政治目的を追求する偏向をおかしている」として攻撃がかけられ、一般国民をこの運動から離脱させる工作が進められた。具体的には自民党による、各地域の原水禁組織に対する地方自治体からの補助金の停止措置であり、地方議会ぐるみで取りくんでいる原水禁運動からの自民党議員引き上げや脱退である。1959年の第5回大会には右翼団体をつかってなぐり込みさえ行なわれた。

 保守陣営はこうして運動を抑圧すると同時に、原水禁運動とあまり関係のなかった団体や個人をあつめて「核禁会議」を結成し、運動が分裂した印象を大衆に与える行為を行なった。

三、運動内部の混乱

原水禁運動内部の意見の対立

 保守陣営からの妨害工作と時を同じくして、運動内部にも意見の対立がおこりはじめた。当初は、軍事基地などの平和問題に関連する課題を原水禁運動のテーマに採りあげるか否か、という意見の対立が表面化してきた。

 いわゆる「筋幅論争」である。それは、“平和運動と軍事基地は関連があるから原水禁も基地反対運動を採りあげよ”というものであり、“筋を通す”ことが重要だという意見と、それよりも“原水禁運動は広範な国民の参加する運動から、その幅を大切にせよ”という意見の対立である。

 第4回大会(1958年)では、学生たちの間から原水禁運動は「勤評問題を採りあげよ」という主張がでてきた。さらに第5回大会(1959年)では「平和の敵明らかにせよ」とか「原水禁運動が安保反対そのものを採りあげよ」などという主張がでてきたが、このときは「あらゆる党派と立場をこえた、原水爆禁止の一点で結集する人類の普遍的運動」という原則をつらぬきとおして、これらの提案を採りあげなかった。

 だが、1960年の安保論争を契機にして、原水禁運動の組織的危機は深まってゆく。次第に党勢を拡大してきた日本共産党は日本原水協の中でも発言権を増大させてきた。60年安保では、日和見主義戦術をとっていた共産党も、彼らのかかげる綱領、つまり「二つの敵論」をあらゆるところで主張しはじめていた。第6回原水禁大会では、あらゆる分科会、分散会で「反米・反帝」という一面敵主張を展開、「平和の敵を明らかにする」ことを迫った。このため原水爆問題は無視され、さながら政党の綱領の宣伝の場となった観すら呈したのである。

 第7回原水爆禁止世界大会(1961年)になるとこのような混乱はさらに強まった。共産党系諸団体が、(1)平和の敵・アメ帝打倒、(2)中ソ軍事同盟は平和のための防衛条約、(3)軍事基地・民族独立闘争を原水禁運動の中心にせよ、と主張し、党派に属しない人びとのひんしゅくをかった。

 社会党やその他の団体は(1)原水禁運動の敵は核実験、核政策そのものである。(2)一党派の政治的主張や、特定のイデオロギーをおしつけるな。(3)一致できない活動は、各団体の独自活動で補強せよ、という意見と真っ向から対立した。

 結局、共産党系の多数決によって「今後、最初に核実験を行なった国・政府は平和の敵、人類の敵として糾弾する」という決議を採択するに至った。ところが大会終了後間もない8月30日、ソ連が核実験再開を発表、10月には50メガトン水爆実験を強行した。日本原水協はこの核実験に対し抗議声明を発したが“人類の敵”として糾弾はしなかった。さらに日本共産党はこの核実験を支持し大々的なキャンペーンを繰り広げた。

 日本共産党の“ソ連の核実験支持”運動は異常なものであり、『アカハタ』は連日、ソ連の核実験の正しさの論証にこれ努めた。そして、ソ連の核実験に反対する者を必死になって非難した。「総評幹事会でもソ連の労働組合・全ソ労組評議会に実験しないように打電し、……原水協でさえもソ連声明に反対するという誤った声明を発表し、……湯川博士なども動揺して、反ソ反共宣伝をこととする米日反動に利用される結果となっている」(61年9月9日『アカハタ』号外)と書き、「たとえ『死の灰』の危険があっても、核実験の再開という手段に訴えるのはやむをえないことです。『小の虫を殺して大の虫を生かすというのはこのことです』(野坂議長談『アカハタ』9月9日)と主張した。ソ連の核実験再開は世界の平和を守るものだから、わが党は「この措置(ソ連の実験)を断固支持する立場に立っている。われわれの態度は共産主義者がとるべき当然の態度である」(『アカハタ』9月16日)と力説したのであった。

 こうして、日本原水協の会議は連日のように“ソ連核実験をめぐる”議論に明け暮れ、まともな運営もできず、運動機能は事実上マヒしてしまったのである。

ソ連の核実験をめぐる対立の激化

 こうした運動内部の対立と混乱をなくし、運動を正常化するため、社会党・総評・日青協・地婦連の4団体が、原水協の体質改善を求める「四団体声明」を発表し「基本原則・運動方針・組織方針・機構改革」の四大改革を要求した。

 この改革案について中央・地方で6ヶ月にわたる討議がかさねられ、1962年3月の全国理事会では120対20という圧倒的多数で、次のように決めた。

 「原水爆禁止運動は、原水爆の禁止・貯蔵・実験・使用・拡散について、また核戦争準備に関する核武装・軍事基地・軍事研究その他各種の軍事行為について、いかなる場合もすべて否定の立場をとる。この場合にたつ原水爆禁止運動が現実にその目的を達成するためには、原水爆政策や核戦争準備について、たんに表面的な現象をとらえるにとどまらず、その根源を客観的に深く究明し、国民大衆とともにその真実を明らかにしなければならない」。こうした内容を中心とした「原水禁運動の基本原則」を決定したのであった。

 しかし日本共産党は、自らの代表が参加し、最高決議機関で圧倒的多数で決めたこの「基本原則」を“原水禁運動でしばりつけ、しめつけるもの”として否定し、無効を主張しつづけた。

 そのためこの「基本原則」も運動を正常化する土台とはならなくなってしまった。

「いかなる国の……」をめぐっての運動の混乱

 こうした情勢のなかでむかえた原水禁第8回世界大会は、統一と団結を守る配慮から“(1)いかなる国の核実験にも反対する。(2)真実を究明し、核実験の根源をとりのぞく”ことを基本とした「基調報告」を主な内容として開催することを参加団体のすべての合意のもとにとりきめた。

 ところが日本共産党は、大会直前にいたり突如「基調報告」に反対し“(1)平和の敵・アメ帝の打倒、(2)社会主義国の核実験は平和を守るためであり支持する、(3)軍事基地反対、民族独立、安保反対闘争”を原水協の中心課題にせよ、と主張しはじめた。折りしも大会第2日目(8月5日)にソ連が核実験を行ったため、これをめぐって抗議するか否かで大会は大混乱に陥り、多数によって「抗議しない」ことになったため、社会党・総評・日青協・地婦連など13団体が退場、大会は宣言・勧告を報告するにとどめ、いっさい決議しないまま流会し、日本原水協の機能は全くマヒするにいたった。

統一への努力も虚しく

 約6ヶ月、空白がつづいたが、中央・地方を通じて運動の統一を望む多くのうごきがあり、1963年2月、日本原水協担当常任理事会(執行機関)が開催された。

 この担当者常任理事会はそれまでの経過から、あらためて運動の性格と原則を確認することにし、慎重な討論の結果、満場一致で、(1)いかなる国の原水爆にも反対し、原水爆の完全禁止をはかる、(2)社会体制の異なる国家間の平和共存のもとで達成できる立場にたつ、(3)多年の努力の成果をふまえ、国民大衆とともに真実をきわめる、ことを骨子とした「2・21 声明」を決定、これと同時に実務的「協定事項」を確認した。

 この「2・21 声明」と「協定事項」を基礎として、「3・1 ビキニ集会」は招集された。

 ところが、3・1ビキニ集会に先立って開かれた2月28日の全国常任理事会では、共産党系団体出身の常任理事が「2・21声明」のなかの「あらゆる国の核実験に反対する」部分に反対してゆずらず、「協定事項」についても異議を唱えたため会議がまとまらず、さらにスローガンについては「あらゆる国の核実験反対」を挿入せよという総評、社会党と共産党の意見が対立、ついに安井郁理事長も収拾不可能と判断、辞意を表明し、担当常任理事会も全員辞任するにいたり、日本原水協としては、統一したビキニ集会を開催できなくなった。

 日本原水協の担当常任理事は当然日共党員も入っており、最初はこの「2・21声明」に賛成したのであった。だがこの決定を日共本部に報告するや、彼らは党のイデオロギーからみてこれを拒否することを決めた。この日共本部の決定により、この大衆団体内部で決められたことはいとも簡単にくつがえされてしまった。つまり日本原水協という大衆団体の論理はつねに日共の党派の論理に従属しなければならないという発想がそこにはみられる。これでは大衆団体の決定は重みをまたないことになる。団体内部の民主主義は否定されざるを得ない。

四、「いかなる……」の原則をめぐる運動の分裂

政党の介入と運動の分裂へ

 3・1ビキニ集会が日本原水協として開催できず、二つに分かれて開かれたことから、運動の分裂は必至とみられたが、原水禁運動のもつ特殊な意義を高く評価する多くの人々の願望と、各地方原水協の運動統一の努力によって、第9回大会(1963年)を前に、再び運動統一への機運が高まってきた。

 こうして社、共、総評の「三者会談」が数回にわたって行なわれ、その結果「2・21声明で原水協の活動を直ちに再開するために努力する」ことを骨子として「三者申合せ」を確認した。そして6月20日「担当常任理事懇談会」を経て、6月21日の「第60回常任理事会」に三者申合せを骨子とした方針が提案され、全会一致でこれを決定、新しい担当常任理事を選出した。

 ところが日本共産党は、6月21日の『アカハタ』で「わが党はいかなる核実験にも反対することを認めた事実はない。」(内野統一戦線部長談)と発表、さらに7月5日の『アカハタ』には、三者申合せを真っ向から否定する論文が掲載された。

 こうした状況のなかで、運動の統一と「いかなる……」の原則問題をめぐって何回にもわたって調停の会合が開かれたが、日共はギリギリのところで態度を固執し、日本原水協が責任をもって第9回原水禁世界大会(1963年)を開くことは次第に困難になってきた。

 安井理事長の”(1)いかなる国の核兵器の製造、貯蔵、実験、使用、拡散にも反対し、核兵器の完全禁止をはかる。(2)各国の核兵器政策や、核実験のもつ固有の意義について、国民大衆とともに明らかにする。(3)各段階において、情勢に応じた具体的目標を定めて運動を進める”とういう、いわゆる「安井提案」が出されたが、「いかなる・・・」に反対する共産党の主張が強硬のためまとまらなかった。

 会談は大会直前になって、広島にもちこされたがここでも結論はでなかった。この間、共産党・民青はぞくぞくと代表動員をかけ、大会場で多数の力で「いかなる……」原則を否定しようとする戦術をとることが明らかになった。大会の責任ある運営はもはや望むべくもなかった。

 総評、社会党とこれと立場を同じくする13名の担当常任理事が辞意を表明し、総評、社会党系代議員の欠席のまま、第9回大会は開かれ、事実上、「共産党系」を中心とした集会となり、「原水禁運動の基本原則」「2・21声明」を内容とした「森滝基調報告」は無視され、この運動の歴史的成果として生まれた「部分的核停条約」も正しい評価をくだされなかった。

 こうして、日本原水協を中心とした日本の原水禁運動は第九回世界大会(1963年)の分裂により、全くその統一機能を失うにいたった。

運動再建のための関西の動き

 第九回原水禁世界大会(1963年)の分裂によって、原水禁運動の相入れない路線は明確となった。このような状況のなかで原水禁運動を再開しようとする動きはまず関西から始まった。

 大阪軍縮協をはじめとする関西各県の原水禁はこの年の9月30日「日本の非核武装と完全軍縮のための関西平和集会」(扇町プール)を開催した。この集会は国際的な支持もあり、バートランド・ラッセル、バナールなどからもメッセージがよせられた。広島県原水協からも代表が参加し、約3万名を結集する大衆集会となった。

 大会に参加しなかった総評・社会党など13団体は「原水禁運動を守る連絡会議(原水連)」をつくって独自の活動を計画、日本原水協は残存した担当常任理事だけで運営を図る結果となり、それはさらに1964年の「3・1ビキニ集会」で分裂を決定的なものとした。

 1964年の3・1ビキニ集会は、日本宗平協、日本平和委員会、日本原水協の三者によって当初から一方的に計画された結果、総評、社会党系も独自集会を開くこととなり、しかもそれは全国的規模における代表の争奪戦が展開するなかで行なわれた。共産党機関誌『アカハタ』の連日にわたる総評・社会党・静岡県評に対する中傷、誹謗は、目をおおうものがあり、3月2日開かれた「総評・社会党全国合同代表者会議」は、「原水禁運動を正常化するため、独自の組織で活動を展開する」ことを確認し合った。

五、運動再建の努力と原水禁の結成

三県連の呼びかけ

 このような状況を憂えた広島、長崎、静岡の三被爆地原水協から4月7日「原水禁運動のための被爆地からの呼びかけ」が発表された。これは「最近3ヶ年ほどの運動の混迷と停滞、さらに昨年の第9回大会を契機とする運動の亀裂は、被爆地としてたえがたいものである」という立場から出された切実なものであった。

 またこの呼びかけは「ここ2、3年来の原水禁運動が、日本共産党の支配介入によって混乱と対立状態におかれ、当然なすべき日常活動も行えず、春になれば3・1、夏になれば8・6と、たんに人集めの行事をどう行なうかだけに関心がもたれ、それすらも満足に行なえない現状」に対する基本的な”運動の転換”を提起したものであった。

 すなわちその内容は第一に、国民運動としての原水禁運動の基本を堅持し、その当然の前提たる「いかなる国の核兵器にも反対する」ことを出発点とする立場にたって、部分核停条約を正当に評価し、これを第一歩として全面核停条約の締結を要求しつづけ、もって核兵器をふくむ軍備全廃、平和共存の達成に努力する。第二に、運動の政党系列化の弊害を排除し、国民の願望と感情に密着した運動を展開する。第三に、国民と密着した運動を展開するために地域原水禁組織の強化について格段の努力を払い、広範な国民の誰もが参加できるようキメ細かな配慮をする。第四に、米原子力潜水艦の寄港反対、F105D配備反対など、当面の諸課題に対しては、それが原水禁運動にとって不可避的な問題を明らかにしつつ行動にとりくむ、というものであった。この呼びかけは国内だけでなく、海外からも多くの共鳴を得た。

 そしてこの三県連の提唱によって開催された「原水爆禁止、被爆者救援、核武装阻止、軍備全廃を世界に訴える広島・長崎大会」(1964年8月)は、原水禁運動の正常化を願う国内外の諸勢力の支持のもと、広島に2万、長崎に1万2000の代表を結集して開かれた。そこには各地域、職場の代表と、65ヶ国、12国際団体の海外代表が参加して盛大に開催され、原水禁運動の正常な基盤をつくりあげることができた。

原水禁国民会議の結成

 この大会終了後、この大会に参加した団体、個人によって大会決議執行のための「大会実行委員会」がつくられ、これが発展して「原水爆禁止日本国民会議」(原水禁)が結成されたのである。

 原水禁は1965年2月1日の結成に当たり、過去の連動の苦しい経験にかんがみ、運動の正常化とゆるぎない基礎をつくるため、「原水禁運動の基本原則」を確立したのである。この基本原則は、1962年3月につくられた「基本原則」ならびに、1963年2月の「2・21声明」の精神を生かし、「広島・長崎大会」の基調をもとに、運動の諸教訓を生かしてつくられたものである。

原水爆禁止運動の基本原則(要旨)>

1,この運動は広島、長崎、ビキニの被爆原体験に基礎をおく。

2,いかなる国の核兵器の製造、貯蔵、実験、使用、拡散にも反対する。

3,この運動は平和憲法の理念を基礎とし、原水爆の禁止と完全軍縮が、社会体制の異なる国家間の平和共存のもとに達成できるという立場にたつ。

4,この運動は思想・信条・宗教・政党政派をこえ、あらゆる階層の団体や個人を結集する広汎な国民運動であり、誰もが参加できる民主的運動であるから、社会体制の変革を目的とする運動とは性格を異にし、特定政党に従属するものではない。

5,この運動は参加団体の性格を尊重し、各団体の合意によって統一行動をくみ団結してこれを行なうとともに、それぞれの団体の特徴を生かした独自行動を認め合う。そしてこの運動が関連する諸問題をとり上げ、とりくむ場合は、すべての国の原水爆禁止、完全軍縮促進の立場にたち、参加団体の意見を尊重して行なう。

原水禁国民会議と平和投票運動

 原水禁国民会議結成以降、さまざまな運動が展開されてきた。広島・長崎の原爆被爆を記念する集会を8月に開催するのをはじめ、各種の運動を試みてきた。

 「原水禁」が最初に試みたのは「日本非核武装宣言」を要求する「国民平和投票」運動であった。これは、各都道府県でモデル地区を設定し、全有権者の過半数をこの「投票」運動に組織しようというものであった。核武装に反対する世論は圧倒的につよいのであるから、これを平和投票の形式でまとめあげ、国会に要求して「日本非核武装宣言」をかちとろうという野心的なものであった。

 これは全国一律にはゆかなかったけれども、それなりの成果があった。とくに、本格的にこの運動を組織したところは、地域の人びとを戸別訪問によって徹底的に説得したために、その後の運動の組織的な基礎をつくることにもなった。とくに北海道木古内町・三笠市、栃木県の上尾市、山梨県竜王町、長野県佐久市、岐阜県赤坂町、香川県善通寺市、大分県臼杵市などはいずれも目標を達成し、”原水禁”の地域組織を固めることにもなった。その成功例を表にかかげておく。

<モデル地区の成功例>
都市名 有権者数 投票数
北海道・木古内町
〃   ・三笠市
栃木県・佐野市
〃  ・上尾市
新潟県・糸魚川市
山梨県・竜王町
長野県・佐久市
岐阜県・赤坂町
〃   ・坂下町
香川県・善通寺市
佐賀県・大町町
大分県・臼杵市

6,714
26,000
42,135
8,958
25,130
5,005
35,328
7,305
3,500
22,069
8,690
25,880

4,498
18,625
20,000
5,000
11,239
3,050
19,210
4,415
1,722
13,150
4,000
14,730

73.6※
69.0※
47.4
55.7※
42.9
60.3
54.3
60.4
49.2
55.2※
46.0
56.8

※は非核武装宣言を決議したところ

被爆者救援と援護法制定の運動

 被爆者救援と援護法制定の運動は原水禁運動にとって片時も忘れることのできない運動であった。原水禁国民会議は結成時からこれを重視しさまざまな活動を展開してきた。

 8・6、8・9の原水禁世界大会開催にあたっては、大会の分担金とは別に、”各県原水禁”が被爆者カンパの目標を定め、毎年確実にこれを集めて被爆者の救援金に当てている。この夏の大会だけで毎年400万から500万円のカンパが集まっており、被爆者救援の資金となっている。その他に、日常的な救援カンパ運動、組織内におけるカンパ(とくに全電連、全逓婦人部では給料の1円をすべて被爆者のカンパに当てるという運動を行なって大きな成果を収めている)なども行なわれている。

 被爆者救援法を要求する運動は、「日本被団協」を中心に進められ、“原水禁”は被団協を全面的に支援して運動を進めてきた。とくに1968年「被爆者特別措置法」を制置させる段階では、原水禁は全力をあげて活動し、被団協を内外の両側面あらゆるとこらから支援し、「被爆者救援法」には程遠いが、「医療法」を越える、この法律をつくらせることに成功した。広島・長崎における地方自治体への働きかけ(広島県議会は1966年「被爆者対策特別委員会」をつくり、県としての援護対策をとるとともに政府に対して強力な働きかけを行ない、広島市、長崎市なども連帯していわゆる”八者協議会”をつくらせこれが結束して対政府要求行動を行なった)や被爆者の大衆行動(1967年3月には被団協結成以来の大行動が組織された)は「原水禁」の強力なしにはできなかったともいえよう。

 だが、1970年の森滝市郎氏の被団協理事長辞任以降は、日共が被団協の実質的指導権を握り、このような日本被団協と「原水禁」との友好関係に、ヒビが入り、共同行動に一つの傷害ができていることは否定できない。他方、被団協幹部の老齢化するなかで今度は、職場毎の被爆者組織がつくられ、これが被爆者の運動に新しい活気をつくりだしているのが当時の特徴である。全電通、国労、日教組、全逓などのなかにそうした組織ができ、動きが活発となってきた。

六、被害の“原点”に依拠する運動

原爆ドーム保存運動の成功

 1966年、当時の浜井広島市長は、原爆被害の惨状のシンボルともいうべき原爆ドームが風化し崩れかかるのを見かねて、その永久保存を決意した。最初市議会でこれをはかったところ、一部保守系議員と共産党議員の市の”予算を使用するのはけしからない”という反対に出合った。このときにとった日本共産党の態度は実に不可解であり、自民党の責任とともに永久に忘れられない。原爆ドームの永存されつづける限り、日共の汚点は記憶され続けるだろう。一時はこの保存構想の実現は全く暗礁に乗り上げたかのようにすら思われたのである。そこで、ドーム保存の決意の固い浜井市長は、全国民に訴え、カンパを集めてもこれを保存しようと計画した。

 「原水禁」はこの浜井市長の計画の意義を積極的に評価し、大衆的な募金活動を決定した。もしも「原水禁」のこの決定がなければ、浜井市長もこの大胆な募金活動を全国に呼びかけることはできなかったかもしれないのである。浜井市長は自らも街頭カンパの訴えにたち、「原水禁」は全国民的にドーム保存の募金活動を展開した。総評も正式にこの運動の支援を決定し、募金は瞬く間に集まっていった。この募金活動を真剣に行なったところでは、広はんな国民的支持をうけ、超党派的な運動へと飛躍していった。僅か数ヶ月間に募金は7000万円を超すに至り、1967年4月には保存工事の起工式を行なった。

 全国津々浦々に運動は浸透し、「原爆ドームを保存しよう」という声が広まっていった。「各県原水禁」も積極的にこのカンパ活動を展開し、目標額は殆どの府県で達成され、それを突破するところが多かった。もしも今日、原爆ドームを保存することによって、原爆被害のシンボルを残し、反原爆の国民感情を育てる一つの手懸りとなりえているとするならば、われわれのカンパ運動もこれに大きく貢献しているといってよいのである。(国民的支持の高揚を無視できなくなた日共本部は運動が峠を越し、終わり近くになってから10万円をカンパした)現在、原水禁のシンボルマークとなっているのは、このドームをもじってつくられたものであることも付記しておきたい。

七、沖縄返還と核基地撤去闘争

沖縄返還とB52撤去、原潜寄港反対の闘い

 1965年のアメリカの北ベトナム爆撃開始は極東の軍事緊張を極度に激化させ、平和共存を真っ向から脅かすものとなった。しかもこの北爆には沖縄の核基地が直接に利用されはじめたのである。

 学者・知識人たちは、“ベトナムが極東の範囲に入らず、安保条約の適用区域ではないのだから、沖縄や日本本土を利用することは安保条約にも反する”と主張し、日本の北爆加担に抗議した。だが現実には、沖縄基地はベトナム戦争に利用され、その上、B52まで嘉手納空港に飛来するにいたった。沖縄県原水協(原水禁加盟)は、ただちにこれに抗議することに決め、大衆的デモを組織するとともに本土に直訴団を派遣してきた(1968年2月)。

 原水禁国民会議はこのとき以降、沖縄問題に本格的にとり組むことを決めた。沖縄返還運動を支持するとともに、沖縄の核基地を撤去させることがその主題であった。もちろん沖縄には原爆被爆者がおり、本土とは差別された待遇をうけていた。法体系の違う沖縄で「原爆医療法」に準ずる法がつくられたのは、「医療法」制定後10年を経た1967年のことである。つまり被爆者も10年の格差をつけられたのだった。この差別された被爆者を救うこともかねてからの課題であった。

 こうして、「原水禁」は1968年以来、広島・長崎についで沖縄を重視し世界大会の一環として沖縄大会を開くことにしたのである。

 沖縄で「原水禁」が真っ先にとりあげたのは、B52の撤去であったが、それ以外にも課題は多い。まずは原潜は沖縄県民の反対にもかかわらず那覇港にしばしば寄港していたし、核弾頭をつけたメースBも配備されている。沖縄県原水協は米軍の妨害を蹴って那覇港の海底泥を採取し、「原水禁」はこれをひそかに科学者の分析に託した。この分析の結果、海底の泥からは大量のコバルト60その他が検出された(1968年)。原爆寄港による放射能汚染が判明するや魚の価格は暴落し、魚市場は恐慌状態となった。沖縄ではビキニの「死の灰」事件よりも「コバルト60事件」の方がショックは大きかったのである。当時の琉球政府や立法院も”原潜寄港反対”をつよく米高等弁務官に要求した。世論の強い非難の前に遂にアメリカは原潜の那覇港寄港を断念し、太平洋側のホワイトビーチに寄港地に変更するに至った。

沖縄核基地の調査と暴露活動

 沖縄に核兵器があることは暗黙の了解事項ではあるが、その実態は容易に明らかにすることはできない。毒ガス撤去に際しては、米軍は屋良政権の推せんする専門家・学者の基地内立ち会いを許した。この教訓を生かし、沖縄県原水協は基地の調査・点検活動を計画した。こうして軍事評論家小山内宏氏の協力の下に沖縄核基地を調査し、核兵器の所在をもほぼ確かめることができた(1971年6月発表)。

沖縄返還と自衛隊の派遣阻止

一九六九年の「日米共同声明」によって、沖縄の核付き変換の構想は明らかとなった。 沖縄県原水協は、この自衛隊派遣に反対する闘いを組織しはじめた。本土側の力不足でこの闘いは必ずしも足並みがそろったとはいえない。だが、本土・沖縄の両運動の連帯と結合は次第に具体的になってきた。自衛隊が「基地周辺整備法」を利用して、住民や地方自治体を懐柔してゆくやり方は本土側から沖縄に知らされ、沖縄側にとって大きな教訓としてこれは学ばれた。また、本土側のナイキ反対運動は沖縄に行き、米軍がかつて行なったナイキ・ハーキュリーズの実射訓練の被害の実情を聞き、いよいよ反対の決意を強めていった。このナイキ反対運動にみられる連帯のあり方は今後ともにいよいよ重要となってくるだろう。

八、核の被害はいまなお続く

被爆の記録映画上映運動

 1970年、それはちょうど被爆25周年にも当たる。原爆被爆後25年も経つと国民の原爆の記憶もあやしくなってくる。政府は意識的に「核アレルギー退治策」をとり、原爆を無視しようとしていた。中小学校の教科書からもヒロシマ、ナガサキを故意にとり除いてきた。

 一方、ベトナム反戦運動が一定の高まりを示すと“原水禁運動はもう過去の活動だ”という若い活動家の声も聞こえてきた。果たしてそうだろうか。原水禁運動はもうさしたる役割を果たさないものとなったのか。

 現実には、核兵器はますます巨大化し、ミサイルの性能もかつてとは比較にならないほど高度化している。原潜とくにポラリスやポセイドンは海中から、相手に壊滅的被害を与える能力を備え、日夜臨戦態勢に入っているのである。核軍拡競争は、それを禁止する緒口にもついてはいない。

 「いかなる国の核兵器にも反対する」という核絶対否定の決意を固めた原水禁運動はなにをすればよいか。「原水禁」はこの被爆25周年を期して、忘れかけたヒロシマ、ナガサキの被爆の実相を改めて再現し、国民にももう一度“原点”にもふぉった反原爆の意識をつくりだそうと計画した。まず、考えたのがアメリカ軍に没収された映画フィルムを紹介する運動であった。

 すでに、アメリカ側は没収したフィルムを日本に返かんしてきたが、日本政府は人体のむごい被爆場面のでてくるところはひどすぎるという理由でこれをカットし、公表しなかった。だかしかし、被害の真相をかくすことは正しくない。ここからでてきた運動がフィルムの全面公開を主張する”ノーカット”運動であった。

 原水禁国民会議は多くの陰の協力者を得て幸い、アメリカのコロンビア大学マスコミ・センターが被爆の惨禍を編集した映画「ヒロシマ・ナガサキ――1945年8月」を入手することができた。映画は国民の圧倒的な歓迎をうけ、全国各地で自主上映運動が展開された。とくに若い青年男女は、これまで知らされていなかったヒロシマ・ナガサキの惨状を始めて見、感動し、たちまち運動の波紋は広がっていった。

 全国各地でも状況は同じであり、これまで原水禁の影響外にあった人びとや高校生たちが数多くこの映画上映運動に参加してきた。恐らく、数百万人の人びとがこの映画をみたことであろう。原爆の社会的教育運動としては、この映画運動は画期的成功だったといえるのである。

核実験反対運動と核の被害の追求

 核兵器による被害は決して過去のことだけではない。今日もなお核の被害はつづいており、新たな加害行為も続けられている。

 アメリカとソ連は地下核実験とはいえ、核実験を強行している。1970年、71年にアメリカはアリーシャン列島のアムチトカ地下核実験場で爆発実験を行なった。これまで比較的に運動の弱かったカナダからも反対の声が上がった。アメリカ西海岸でも反対運動が盛り上がってきた。平和団体だけではなく、今度は環境保護団体「グリーン・ピース」や「フレンズ・オブ・アース」も放射能による環境破壊に反対して強力な運動を展開しはじめた。「原水禁」はそれらの運動と丹念に連絡をとって国際的連帯をし始めた。

 フランスのムルロア環礁における核実験(1972・73年)にはさらに大きな反対運動が盛り上がった。オーストラリアやニュージーランドは政府が反対運動の先頭にたった。

 仏領タヒチをはじめフィージーや西サモアなど小さな島国でも反対運動は組織されてきた。このような世論を背景にして、ニュージーランドの平和団体(ピースメディア)は抗議のヨットを数隻実験区域に突入させた。「原水禁」もこれを支援する署名やカンパを送った。これは全国各地で少しずつ集められたものの集積である。都市であれ、職場であれ、少額でもフランスの核実験に反対して出されたカンパはこうして世界の平和運動を支える力となっており、運動はお互いに手をつなぎあっているのである。

 1974年のフランスの核実験には太平洋一円から広はんな抗議の行動が起こった。オーストラリア政府はフランスを国際司法裁に訴え(73年)、ニュージーランド政府もフランスに実験中止を迫った。74年にはフリゲート鑑「オタゴ」を実験水域近くまで派遣して抗議した。

 労働組合も強力な抗議を行ない、オーストラリア労働協議会(ACTU)は電信・電話・郵便・船舶・運輸関係部門でストを行なった。フランス国内でもディスカールデスタン大統領の核実験強行に非難が高まった。閣僚の一人ジャンジャック・セルバンシュレベールは実験に反対したために解任されてしまった。カソリックの神父やボラルディエール元将軍らも反対にたち上がった。

 無謀な核実験によって、地球が放射能汚染されてゆくことを黙過できない。人類が生きのびるためにはいかなる国の核兵器にも反対してゆかなくてはならないのである。

ミクロネシアの水爆実験の被害者調査

 核実験の被害はいまなおつづいている。原水爆の被害者はじつは日本人だけではなかったのである。こうした事実をつきとめ、それを世界に知らせることもまた原水禁運動の役目であろう。

 ミクロネシアから原水禁世界大会に参加したアタジ・バロス議員(1971年の被爆26周年大会)は、“ビキニの核実験の被害者を是非調査して欲しい”と要請してきた。原水禁はこれに応えることを決め、1971年の暮調査団をミクロネシアに派遣した。アメリカの妨害で被爆地であるロンゲラップやウトリック島にはゆけなかったが、マジェロ島で多くの被爆者に会うことができた。

 約243名が「死の灰」をあび被爆したが、41名はすでに死んでいた。ロンゲラップやウトリック島が放射線被曝の最もひどかったところであるが、これらの人びとは米子力委(AEC)のモルモットとして利用され、まともな治療はうけていなかった。被爆者たちはビキニ事件の「死の灰」を浴び、その直後殆ど全員が急性の放射線障害症状を呈したという。広島、長崎と同じように、下痢・頭痛・脱毛そして白血球の減少を体験した。

 この原水禁の調査は英文となって各国の平和運動に送られて、各地の核実験反対運動の資料となっている。これら一連の活動を通して、「原水禁」はアジア太平洋一帯の連帯を追求しており、環太平洋の国際連帯を指向している。こうして、1975年4月には、フィージーで「太平洋非核化会議」が開かれた。原水禁もこの会議の成功に大きく貢献したのである。

 原水禁運動は感情的に「核兵器反対」というだけではない。核の恐ろしさ放射線障害のひどさを理論的にも明らかにし実証的にもはっきりさせて、人びとを説得してゆかなくてはならない。それがどんなに困難でもやり遂げなければいけないだろう。科学者や専門家と協力し、自らも学習して“核”に関する知識と理論を蓄積してゆかなくてはならないのである。原水禁運動はそういうところにきているのである。

九、核武装阻止と反原発の闘い

ナイキJ設置反置と武装阻止

 日本の核武装を阻止するためには、核弾頭の開発に注意し、これを阻止する必要があるが、同時に”核”の運搬手段にも注目しなくてはならない。

 自衛隊はナイキ、ホークなどのミサイル兵器を装備し、このような兵器を徐々に入れ替えて、いずれは”核弾頭”運搬可能なミサイル兵器を導入しようという意図があるからである(アメリカは最初ナイキを核弾頭装備兵器として開発したのである)。

 この危険な意図を封じ込めるために、自衛隊へのナイキJ配備反対とそのための基地新設に反対する運動が必要であった。最初の運動は北海道長沼に計画されたナイキ基地に反対する運動であった。長沼における闘いは現地のねばり強い闘いによって支えられ、やがて「長沼裁判」となって”自衛隊違憲判決”をひき出すにいたる。しかしながら、平和運動としてみれば孤立した闘いであり全国的な支援・協力は乏しかった。この反省の上にたって、独自のナイキJ設置反対運動が必要とされていた。「原水禁」とくに「大阪軍縮協」はこのことに最も早く着目し反対運動にとり組んだ。

 自衛隊が第四高射群(中京地区)の設置を計画していることがわかるやただちに行動が開始された。大阪・能勢町では動きが早かった。1970年4月には、”ナイキ反対の集会”が開かれ能勢町議会も反対を決議した。大阪軍縮協は連続的にオルグを送り、地元の反対同盟に協力し、学習会、宣伝が地道に行なわれた。これらの活動の中で地元青年たちの反対の決意はいよいよ固まるとともに、運動は周辺にも伸びていった。大阪府議会、京都府議会も「ナイキ反対」を決議するに至った。

 地元反対同盟は講師を招いた学習会だけではなく、全国各地に出むいてナイキJの実態をとらえる活動を行なった。裁判中の長沼の現地を視察し、ナイキ基地建設で自然がどのように破壊されているかを見、沖縄にいってナイキ・ハーキュリーズの実射訓練の被害も確かめてきた。町長や町議会が“反対の態度”をかえないか監視が続いた。

 「大阪軍縮協」は能勢が孤立しないように常に運動を周辺に拡大する努力を続けた。茨木市、高槻市、池田市、八尾市、吹田市、箕面市などの市議会がぞくぞくと「ナイキ反対」を決議し、能勢の反対運動は強化されていった。こうして約5年間に及ぶ反対運動のなかで、防衛庁はいよいよ窮地に追い込まれ、遂に能勢へのナイキ設置を断念した。これは部分的勝利とはいえ、平和運動が確実に勝利した数少ない成功例の一つである。

 大阪能勢の闘いは、全国的なナイキ反対運動にもよい影響を与えている。ナイキ反対の全国活動者会議での経験交流は、各地の反対運動に生かされていった。こうして青森県車力村では防衛庁の「ミサイル試射場」計画を遂に断念させることに成功したし、北海道八雲町の場合は、後一歩のところにきている。このナイキ反対運動で忘れることのできないのは今は亡き小山内宏氏の活躍である。実践的軍事評論家だった小山内氏は、ナイキ批判の詳細な情報をもって僻地や山奥まで出むいていって、地元の活動家と学習会を開き、懇談会に参加していった。彼のこの旺盛な活動がなければ、ナイキ反対運動もどうなっていたかわからない。歴史に長く記録されるべき功績である。

「死の灰」と放射能による環境汚染

 かつて「いかなる国の核実験にも反対する」という原則問題で意見が対立したとき、その一つの論点は“死の灰”による環境汚染の問題であった。共産党と日本原水協に残った人びとは「ソ連や社会主義国の“死の灰”はガマンせよ」と主張した。あるいは「少しぐらい“死の灰”を浴びても構わない」というのであった。

 だが“死の灰”は社会体制の相違にかかわりなく、等しく大気を放射能で汚染しとりかえしのつかない状態にまでゆきつこうとしている。アメリカのノーベル賞受賞者ライナス・ボーリングがアメリカ原子力委員会(AEC)の核実験を強く批判したのもこのためである。

 “核実験でつくられた放射性物質が人類に大きな遺伝的損失をもたらす”と判断したからである。ソ連のサハロフ博士が、自分の責任を痛感したのは、自分たちのつくりあげた水爆の実験が人類に被害を与えていることを認識しているからである。

 ここでみられたの放射能による環境汚染をどうみるか、という見解の相違は、その後の「原水禁」と「原水協」の運動路線にも決定的な相違を生じさせるに至った。それがはっきりしてくるのは原子力発電をどうみるかという点である。原発反運動でこの二つの組織の方針は根本的に違ってくる。

 「原水協」は周知のように原発反対をはっきりと打ち出しているわけではない。「民主・自主・公開」の原則が守られればこれに賛成する態度をとっている。共産党の条件闘争の主張と同じである。

 だが、今日、原子力発電や再処理工場が、確固とした安全対策をたてず、政府・電力資本の一方的な意志によって乱造されている。現在日本で設置されつつある原発はそもそも、日本が自ら開発したものではなくアメリカからの直輸入であり、「自主」的技術開発をしたものではない。その上、原発設置にあたって地元の意向には殆ど耳をかさず全く非民主的に行なわれている。公開の討論すらさせないのである。安全審査の資料は“秘密”であり「公開」の原則は全然守られていない。

 これだけはっきりしているのに何故反対できないのであろうか。原因は他にあるとみなくてはなるまい。

 原発や再処理工場から出てくる「死の灰」・放射性物質の危険な性格について認識が甘いか、弱いかということである。

原水禁と原発反対運動

 「原水禁」が原発にとり組み始めたのは1969年からである。原潜が寄港し、放射性物質が港湾を汚染しつづけているが、同様に(あるいはもっと大量に)放射性物質を海水中に放出する原発をどうみるか、が鋭く問われてきた。原発をかかえた各県原水禁からも問題が提起されてきた。

 69年の柏崎集会をはじめとして、70年の活動者集会(茨城・東海村)、72年の活動者集会(敦賀市)を経て「原水禁」としての反原発闘争の方針は固められていった。現在日本で計画されている原発は(1)安全性が全く立証されておらず危険であり、(2)たとえ事故がなくとも日常運転で生じる放射性物質の環境放出自体危険であり、(3)放射性廃棄物の処理方法すらないことを前提にして運動を進めることになった。

 反原発のスローガンは1971年以降、夏の原水禁世界大会の主要なスローガンの一つとなった。だが、この運動は集会やデモだけで片付くものではない。地元における住民の強力な反対運動がなくてはならないし、この住民運動と協力することなしには発展しない。こうして、各地域に発生してきた地元反対同盟との協力・提携が、反原発闘争の組織方針の基本となる。

 さらに反原発闘争においては、原発に関する知識、放射線障害に関する知識、“核分裂”とは一体なにを意味するのかという一定の理解をもたなくてはならない。なぜなら、政府や電力はいわゆる専門家を動員しデタラメな数字を並べ、一方的な理屈でその“安全性”を主張してくる。国民一般や僻地のの住民たちはこれでゴマ化されつづけてきたのである。革新系の地方議員すらこのゴマ化しにのって原発誘致運動すらしてしまったのだ。この政府・電力のゴマ化しの理屈を見抜き、これに反論する知的能力を蓄えなくては、運動はできない。ビラ一つ書けなくなる。

 こうして「原水禁」は、各所で反原発の学習会を開き、理論的武装のためのパンフレットを発行してきた。あるいは学者・専門家などの協力を得て理論的活動にも手がけてきた。

反原発闘争の発展

 各地における反原発運動の高まりにより、政府の原発計画は大きく狂ってきた。既にせっちした原発も事故続きで満足なものは一つもない。技術的不安は電力内部でも深刻である。こうした状況のなかで石油危機に見舞われたのだが、政府は安全対策や環境保護には力を入れず、”石油危機だから次は原発だ”という方針で強行策を開始した。

一〇、被爆者救援法運動の発展

被爆者救援運動の新しい段階

 1973年以降、被爆者救援の運動は新しい段階をむかえた。

 なぜ新しい段階といえるのだろうか。

 そこには二つの要素があった。一つは原爆被爆者の“国家責任”を追求する運動があらためて問われ、運動が強化されてきたことであった。二つめは、被爆者のうけた放射線障害問題、真正面からとりあげられ、「被爆者救援法」の要求が論理的にもさらにつよまったことである。

 第一の“国家責任”の問題は、これまで主として“被爆者と国家の身分関係”の解明におかれるろいう偏向もあった。つまり、戦時中政府の命令によって働かされていた時に原爆の被害をうけたのだから、政府が補償をするのは当然であるという論法である。

 だが、この論法によれば、一般被爆者は軍人や軍属より国家との身分関係が弱いから、補償の程度も薄くなるということにならざるをえない。

 だがしかし、原爆被害の本当の責任は、そこにあるのではなく、老若や男女を問わず、非戦闘員を無差別・大量に殺害したことにあるのであり、被害者が自ら自己の健康を回復できないような極限的状況に追い込んだことへの補償の問題である。被爆問題で問われていることはこのことなのである。

 当時ようやく注目を浴びてきた朝鮮人被爆者問題がこの関係をくっきりと浮かび上がらせた。孫振斗さんのケースが一番はっきりしている。

 孫さんは大阪で生まれ、日本で育ったが、広島で原爆にあった。戦後「韓国」に強制送還されたが、原爆症を治そうと日本に密入国し逮捕された(1970年12月3日)。彼は入国管理令違反で有罪になったが、原爆手帖の交付を求めて福岡県知事を相手どった訴訟を起し、これに勝訴するにいたった。孫さんは自分の意に反して広島で原爆の被害をうけたのであり、日本政府が放置できる問題ではない。明らかに政府が補償し、援護しなくてはならない義務がある。

 孫さんを支援する運動が広島などの市民グループから提起され、次第に大きな運動と鳴り始めたとき、大阪軍縮協をはじめ原水禁国民会議等の諸団体もこれにとり組みはじめる。朝鮮人被爆者問題がようやく明るみにではじめた。

朝鮮人被爆者に対する責任

 戦争中、日本政府は朝鮮人を徴用し強制的に広島、長崎に連行して働かせていたのだった。そして原爆の被害をうけることになったが、その数は約9万人とみられている。韓国では原爆被爆者救護協会がつくられ、日本政府へ補償を要求しはじめた。

 原水禁国民会議は、こうした運動をまともにうけとめ、1973年2月「被爆者救護法制定要求・朝鮮人被爆者救援集会」を開いた。この集会には韓国の被爆者救護協会からメッセージが届けられた。メッセージには次のようにのべられていた。

 「日本の平和運動が自国、自民族の被爆者の救援に没頭する余り、全体の1割にも及ぶ外国人被爆者の問題についてはいままで全然ふれていなかったことも事実です。……この度貴会議が“外国人被爆者のことと救援法制定”を行動目標として採決したこと(を)……私たち外国人被爆者一同は、歓呼と激励の拍手を送ってやみません」と。

 いまや朝鮮人被爆者問題がクローズ・アップされるに至って、日本政府の被爆者に対する責任は、鮮やかな照明をあてられた。この責任を国家補償の観点から解決することだけが残されているのである。

原水禁の援護法制定運動と総評被爆連

 日本被団協は幹部の老令化と共産党のセクト的運営によって次第に運動力量を低下させてきた。援護法制定という重大な課題を抱えながら、組織の力は弱化するばかりであった。

 こうしたとき、新しい被爆者の運動が成長してくる。総評加盟の各単産のなかにつくられてきた被爆者組織が大きく合流する動きがでてきた。

 広島においては1972年以降、被爆二世問題にとり組む連絡会議がつくられ、被爆二世の実態把握、健康管理などの諸要求で運動が始められた。この連絡会議はその後いわゆる18団体共闘をつくりあげ、各単組の被爆者組織、被団協などの共闘を進める有力な組織要因となった。1973年には被爆連を発足させ、フランス核実験反対、自衛隊のパレード反対などの諸行動を強化するとともに、被爆者援護法制定の運動を、より積極化してきた。こうして、1973年には各単産で組織してきた被爆者組織を統合する「総評被爆連」をつくりあげ、被爆者の運動に新たな「総評被爆連」をつくりだしたのであった。

 1974年にもなると、老令化した被爆者が櫛の歯が折れるようにポツポツと亡くなる者もふえてきた。援護法一つ実現できずに放置されたまま死ぬに死に切れないという意識が被爆者の間に高まってきた。こうして「被爆30周年までに援護法を実現しよう!」という声が合い言葉となってくる。原水禁はこのスローガンを軸にして援護法制定の大衆行動を計画した。

 1975年2月には原水禁と総評被爆連は「被爆列車」を仕立て、広島・長崎から被爆者を含む800名の代表団が上京した。そして「被爆者救援法制定2月中央行動」が展開される。被爆者は要請書を厚生省に提出し、さらに厚生省内デモ、大衆集会(日比谷野音10,000名)を連続的に行ない、被爆者援護法の行動はかつてなく高まった。

 この年の運動は、援護法制定闘争の一つの画期をなすものであった。その規模と迫力においてかつてない盛り上がりを示したのであった。

 こうした運動の成果として「保険手当て」がこの年九月より新設されることになった。この手当ては2Km以内の被爆者に限って支給されるという限界があるが、発病していない被爆者をも対象にするという点で、一つの前進であることは間違いない。

放射線被曝と原爆被爆者

 このような大衆行動とともに忘れられない問題は放射線被曝問題について原水禁が厚生省を追求したことである。少なくとも1973年春段階まで、厚生官僚は被爆者の放射線被曝については殆ど無知であるか、無関心だった。

 原水禁はこの点を衝いて援護法制定のための理論的整備を行なった。

 当時、原発反対運動を通じて、放射能による環境破壊と微量放射線の有害さについては理論的解明が進んできた。またミクロネシアの被曝者調査によって、純粋な放射線被曝のもたらす結果も確かめられてきていたのだった。さらに被爆二世たちの自らの健康を守るための運動の発展も顕著となってきた。

 こうした諸運動の共通の問題意識は放射線被曝問題について厚生省のルーズな考え方を改めさせなくてはならないということであった。広島・長崎の被爆者がどれだけの放射線を浴びたのか、それが晩発性の傷害をもたらす可能性は明らかにつよい。事実被爆者の間で、各種のガンは年とともに増大しているのであり、それはとどめることもできない。原水禁はことある毎にこれを追求していったのだった。

 いまや厚生官僚もこの問題を避けては通れなくなった。甘いといわれる国際放射線防護委員会(ICRP)の基準に照らしてみても500ミリ・レム以上被曝した者にはなんらかの補償ないし対策がなされなくてはならないはずだ。広島・長崎の被爆者はこの「許容線量」と比較しても少なくても一桁ないし二桁以上多い放射線を浴びてしまっている。厚生省は理論的に完全に行きづまった。弁解の余地はもはやない。こうして窮余の一策としてできたのが緊急救出時の最大許容量(?)25レムをとりだし、これま以下の被曝ならば“安全”というスリかえの論理をつくりだしたのである。これが「保険手当て」を2Km以内の被爆者だけにするという論の論拠である。

 だがしかし、いまや低線量・微少線量被曝の有害さは確実に確かめられつつあるのであり、厚生省のいう「25レム以下なら安全」という論法はどこからみても説得力をもつものではない。この一点を突破すれば、「被爆者援護法」への道は意外と近いといってもよいのである。もう一歩で、被爆者の悲願は実現しようとしているのである。

小さな成果の大きな意味

 原水禁運動はデモや集会だけがそのすべてではない。社会のかた隅の小さなできごとでも、核問題に関係するものはその都度とりあげ、適切に処理してゆかねばならないのである。

 例えば、原水禁は原爆被爆者を宇宙怪人に仕立てあげた漫画への抗議(1970年)を行ないこれを削除させた。これは広島の被爆者が告発したものであり、被爆者の人権を侵すものとの観点から抗議行動を組織したのであった。あるいは1972年には、国語の教科書の偏向に抗議する運動を起した。この教科書には「原子力」を扱った部分があるが、それは一方的に原子力発電を美化するものであり、今日の安全性の保障しえない原発施設を促進する政府・電力会社の宣伝文ともいえるものであった。日教組とタイアップして文部省と出版社(光村図書)に抗議し、これを削除させることに成功した。これらの図書はいずれも50万〜60万部の発行数をもち、その影響力は無視できない。無心な児童たちがこうした図書で教育されていった場合その結果でき上がる観念は将来恐るべきものとなるに違いないのである。また広島の被爆連は、雑誌『少年マンガ』が被爆者を蔑視するような作品を掲載していることを発見、激しく抗議して謝罪させることに成功した。また「平和音楽祭」にも抗議の諸行動を行なった。

 1974年には東宝映画「ノストラダムスの大予言」が被爆者を異様な怪物に仕立て上げた場面を扱っていることがわかった。大阪の活動家や被爆者は連続的に波状抗議を行ない東宝と集団交渉の結果、遂には問題の場面のフィルムをカットすることを約束させ、さらに新聞に正式に謝罪広告を出させることに成功した。

 これらの小さな問題も決して見過ごしてはならないだろう。見方を変えれば社会的には大きな役割を果たすからである。勇ましいデモだけが国民運動ではないのである。

一一、反核運動は進む

原発反対運動の新しい局面

 原水禁は1969年頃より原発の危険性に着目し、これに反対する運動を展開してきた。これまで反原発の運動は殆ど建設予定地の住民運動に任せられており、これへの支援運動が主たる運動の形態だった。

 だがしかし、原発が各地で運転されはじめ、核が産業のなかに定着しようという状況をむかえた時、運動もまた新しい局面へと発展せざるをえなくなった。

 現在の軽水炉原発が動きだし、その数がふえてくれば、単純ウラン燃焼型の原発に代わって次の原子炉の開発がなされなければならず、核燃料サイクルの確定がいそがれることになる。いまわが国でも使用済みの核燃料を再利用してプルトニウムをとりだす再処理工場をつくり、プルトニウムを燃料とする原子炉(高速増殖炉など)の開発が急がれ始めた。 こうした状況を直視した原水禁はまずプルトニウムについてのキャンペーンを実施した。プルトニウムの危険性についてはすでにA・タンプリン博士やT・コックラン博士が、”僅か数グラムあれば3億人に肺ガンを発生させる危険がある”という警告を出していたし、“プルトニウムの防護基準を10万倍きびしくせよ”と主張していた。

 原水禁はすでに1974年5月、「プルトニウムに関する公開質問状」を原子力委員会に提出した。プルトニウムについて正しい認識をもち、このような形で問題を提起したのは全く初めてのことである。

プルトニウムについての公開状

 その質問内容は次の通りであった。

(一)プルトニウムの被害から国民の健康を守るために、現行の「プルトニウム目やす線量」より10万倍きびしい”防護基準”をつくる用意はないか。
(二)核燃料再処理工場の設置工場の設置許可に際して、プルトニウムの危険性についての特別の検討を加えていないし、特別の防護基準も設けていない。これはプルトニウムの環境放出を防止し、国民の健康を守る上での重大なミスではないのか。
(三)プルトニウムの危険性について十分な解明のできていない日本において、プルトニウムを扱う核燃料再処理工場の設置や高速増殖炉の運転を許すことは、危険である。まず国民の健康を守る具体的措置が先行すべきであると考えるがどうか。
(四)政府は最近、核燃料再処理工場を民間企業にも許すべく原子炉規制法を変える態度を固めているというが、本当か。もしも、この危険なプルトニウムを扱う再処理工場を民間に任せば、多大な費用を必要とする安全対策はいよいよおろそかになると思わざるを得ないが、どうか。
(五)プルトニウムの防護基準の設定を手はじめにして、今後、原子力産業から生じる放射性物質から国民の健康を守る抜本的対策(放射線障害に関する研究をはじめ、さまざまな規制措置の設定など)を開始する用意はないか、どうか。

 現在のところ、これに対する回答はないがわれわれの指摘の正しさが後日判明することだろう。

原発のトラブルと電力料金問題

 原発が動きだすやわれわれの懸念が現実のものとなった。事故やトラブルが連続的に起こり、まともな発電ができないからである。放射性物質の環境への漏出が各地で起こり、まともな発電ができないからである。放射性物質の環境への漏出が各地でおこり、所内で働く労働者の被曝問題も深刻化してきた。そしてまた、稼働率の低さは原発が大型投資を必要とするために電力会社を致命的なところに導きかねない。予想に反した。発電しかできなかった場合はすでに支出されてしまった巨大投資を回収するために電力会社は料金値上げを決意するだろう。

 都市部でもいまや反原発の市民運動や消費者運動が起こってきたが、原水禁はこうした運動への協力・連帯をかねて電力料金問題について提言を行なった。アメリカにおける原発運転の実績とわが国における事故とを具体的に分析した後、次のように提言した(1975年2月)。

(一)原発が電力料金値上げの構造的要因になろうとしてる今日、その消費者である国民はこの問題にどう対処すべきか、民主的な討論を起すべきだと考える。これまで消費者は、政府の政策的誤りや企業の利潤追求の犠牲を高物価、高料金という形で負担させられつづけてきた。矛盾のしわ寄せは、専ら消費者の肩にのしかかってきた。だがいまや、料金値上げ案が具体化してから反対運動を起すのでは遅い。原発は少なくとも電力料金値上げを必然的にもたらそうとしていることが予知できるのだから、原発の是非について消費者は予めこの問題に各自の意見を表明するべきだと考える。
 原発計画が完了してしまってからではすでに遅い。「予防先行的」な料金値上げ反対運動が起されるべきだと判断される。
 われわれは、すべての消費者団体、市民運動、労働組合などにこの事実を訴えて、国民的な論議を起すことを提唱する。
(二)良識ある経済学者、研究団体に原発の実態を紹介し、経済的観点からみた”原発の反国民的性格”の検討を要請したい。専らエネルギー需要論から論じられてきた原発は、その経済効果の面からは解明されていない。だが、原発の乱造から料金値上げが加速化されかねない今日の情勢は、国民経済の面からみても等閑視はできないものであろう。
 われわれはすべての経済学者の問題解明を提唱したい。
(三)電力会社に対して、原発の効率の悪さより生ずるロスを電力料金に転嫁するかどうか問いただしてゆきたい。あるいは、これを料金値上げに転嫁しない保障があるのかどうかもたづねてゆきたいと考える。
 「公共料金」は失敗した発電機構の経済的なロスに対して支払われるべきものではないのだから。消費者である国民は公共料金のメカニズムについて発言権をもつと考える。

 このわれわれの警告は事実となってきている。例えば、1977年度の原発運転実績は41.8%(設備利用率)であり、このために原発からの東電の損失は540億円にのぼった。全国(10電力会社)で年間1,200億円の損失である。

伊方裁判闘争と反原発

 愛媛県伊方町では地元反対同盟が四国電力の計画する原発に激しい抵抗をつづけてきた。電力側のペテン師的ダマシうちやおどかしにも屈せず、農民たちは着実な闘いを進めてきた。そして1973年には”伊方原発の許可処分”を不服としてこれを取り消すよう政府を相手どった裁判を起した。

 裁判闘争は関西地方の弁護士や学者たちの支援のもと、大きな運動となってきた。法廷における証人たちの論戦はさながら、学術論争の観を呈し、政府側証人の説得力のなさ、安全審査のズサンさを次々にあばいていった。内容的には、原子力委員会は完全に敗北したと思われた。

 この裁判闘争を重視した大阪軍縮協その他各地の原水禁運動はこれへの支援を開始し、傍聴動員やカンパの運動を展開した。こうして1976年より原水禁世界大会の名で裁判支援のカンパを行なうことになった。伊方原発裁判は今年4月28日の判決で破れはしたが、原子力委や政府の原子力行政がいかにズサンであいまいなものかを明らかにすることができた。

 東海村の原発裁判もまた続行中である。関東ブロック各県はこれを支援する運動に取り組んでいるところである。

 原水禁は1976年夏、これまでの事故つづきの原発、各地の環境破壊と労働者被曝問題など原発の実態を批判的に総括した『原発黒書』を発行し、国民に警鐘を乱打する啓蒙活動を行なった。

反原発の国際連帯

 反原発の運動はいま世界各地で一斉に高まってきている。原水禁は、この運動における国際連帯の重要性を認識し、各国の運動体と連帯をつよめてきた。

 早くから原発の危険を主張してきたアーサー・タンプリン博士(天然資源保護委員会)や憂慮する科学者同盟(UCS)、ラルフ・ネーダーのグループ、「地球の友」などと交流し、情報を交換し、運動の経験を学びあってきた。アメリカにおける反原発運動の発展と、電力会社の”原発ばなれ”は日本の運動に大きな刺激となったし、戦いの将来への展望を切りひらいてくれた。

 またわが国の科学者たちの外国の科学者たちとの連帯協力も、原水禁運動にとって大きな意味をもった。専門領域からの助言と勧告が運動に切実な資料・情報を与えてきたからである。

 スウェーデンのジルベルク博士(遺伝学)や西独の運動、イギリスの「地球の友」や激しい闘いを展開するフランスのエコロジスト・グループ(これにはエコロジストだけでなく、地域主義運動や非暴力運動などさまざまな団体が加わっているが)との連帯もつよまりつつある。

 またアメリカの「生存のための動員委員会」は原発と核兵器を真正面の危機としてとらえ、新しい反核運動のうねりをつくりだしつつある。

 世界の反核運動はこうしていま新しい局面をむかえているし、こうした諸運動と真に連帯しうるような原水禁運動の再編が期待されているのである。

微量放射線被曝の危険性

 核兵器の開発と原発の乱造が進むなかで、重大な問題が発生してきた。放射線の人体に与える影響の研究が進むにつれて、小線量被曝、微量放射線被曝がこれまでの常識に反してきわめてあることが明らかとなってきたからである。

 アメリカのマンクーゾ(ピッパーク大)やニール、さらにイギリスのスチュアートたちはハンフォードの核施設で働いていた約3万5000名を10年間にわたり研究していたが、その結果、低線量被曝とガン発生の間に明確な因果関係があることが明らかとなった。ガンを発生させる「倍加線量」は、これまで考えられていた値よりも1桁ないし2桁も低いことがわかったのである。

 こうしていまやアメリカ政府も本腰をあげて対策をこうじなくてはならなくなった。核開発や核実験に参加していた軍人や民間人はこれまで低線量被曝だから安全とみていたのだが、これを全部洗い直さなくてはならなくなった。30万人を本格的に調査するというのだ。

 このことは、原発で働く労働者でも本質的は同じことである。いまや低線量被曝の労働者もガン発生の危険におののかなくてはならない。職業人の「許容線量」年間5レムはとんでもない数値だったのである。

 いまや核の「軍事利用」も「平和利用」もこの低線量被曝の危険性というフィルターを通じてみるとき、ともに否定されなくてはならない問題となる。

 放射能による環境汚染の危険性は深刻となった。原水禁運動はこれを防止し、人類の生きのびる条件を確保することをいよいよ重視しなくてはならなくなった。「核絶対否定」の本格的な原水禁運動の歴史はこれから始まるといってもよいだろう。

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