資料
1998

広島の被爆者、武田靖彦さんの証言


 
武田靖彦さんは、1998年6月、原水禁緊急派遣団のひとりとしてインドとパキスタンの各地を訪問し、広島で被爆した体験を話して廻りました。
これは、武田さんが様々な場所で話す際に元にした文章です。


1)自己紹介

年齢65才、広島県原爆被爆者団体協議会所属、 肝硬変、血小板減少等治療中、

原爆による身近な被爆者について

2)8月6日以前の日常

 1941年12月8日未明、日本海軍がアメリカのハワイ島にある真珠湾に奇襲攻撃をし、太平洋戦争が勃発した。私が小学校3年(9才)の時であった。
 戦局が厳しくなるに従い、学校の教科全てについて軍事色が濃くなり、殊に、国民道徳の根源、国民教育の基本理念を明示した教育勅語が終戦まで強制されたことが特色であった。つまり、天皇を神と崇め、忠義を尽くし、国のため身命をささげることを徹底的に教えられ、死を恐れない人間として育成された(大和魂)。この軍事教育が学徒出陣(1943)となり、学生を戦場に送り、 やがて、世界でも希な肉弾戦術を実行し、多くの若者が最後の勝利を信じて神風特攻 隊として敵艦目指して散華して行った。
 私たち子どもや女性も、防火訓練、食料増産のための作業をし、また、本土決戦に 備え、竹槍で闘う訓練をした。
 また、国民の暮らしは貧しく、著しい耐乏生活を強いられ、食料や衣料は配給制度、切符制度となり、「欲しがりません、勝つまでは」が合言葉となった。
 「鬼畜米英」、「七生報国」、「一億国民玉砕」等の標語が合言葉となり、私たちは粗食と空腹に堪えながら、敵機来襲の空襲警報の連続の中、夜も眠れぬ緊張の日々生活を送った。

 1945年3月、私の町の小学校から、県立の中学校に私と5人の同級生が受験したが、私一人が不合格となり、悔しくて泣いた。※(5人は原爆で亡くなる)
 やむなく私立の中学校に入学し、一年生として通学したが、授業は間もなく中止となり、毎日”学徒動員”として軍部の命令に従い、防空壕の開墾作業等に従事し、8月に入ってからは建物疎開作業に従事した。

 私たちたちは、原爆投下前日、広島市役所裏で作業したが、軍事教官のT先生から「明日はゆっくり休み給え。君たちの代わりに、2年生を動員する。」と言われ、私たちは大喜びで帰った。その当時の広島の街は、その時が見納めとなった。

3)8月6日当日及び後日

武田さん直筆の色紙

 8月6日の朝を迎え、今日は何をしようかと思ったところ、母から広島に嫁いだ姉(二女)のところに味噌を届けてくれと頼まれ、仕方なく家を出て駅に向かった。途中、青空を見上げ”今日も暑そうだな”と思った。警戒警報のサイレンが鳴ったので家に引き返したら叱られ、再び駅に行くと、汽車が出た後だった。

 次の汽車を待つべく改札の棚に腰をかけ、もうそろそろ汽車がくる頃だなと柱時計を見たのが、午前8時10分すぎだった。 突然、ピカッ!!と目を射るような昼なお明るい閃光が走り、目が眩んだ。眼前はマグネシウムを炊いたように駅の構内の建物や線路が青白く見えた。
 間髪入れず、ドーン!!という物凄い炸裂・轟音が耳をつんざき、四囲の建物や地面をゆさぶり、窓ガラスが吹き飛び、尾テイ骨を強く打ち、腹の皮が裂け腸が飛び出るかと思った。
 そして、頬が熱くなり、思わず手を当てた。広島の空を見ると、米粒ほどのキラキラ光る白い物体が黄色、赤色を帯びながら、見る間に物凄く巨大な火の玉となり、私の方に覆い被さるように迫ってきた。

 私は息が詰まるほど恐怖と戦慄をおぼえ、逃げようとしたが、逃げられないと観念し、足下の長椅子のもぐりこんだ。
 ザ、ザ、ザという音に、私は敵機の機銃掃射ではないかと思い、生きた気がしなかった。
 静かになったので恐る恐る這い出してみると、物凄く巨大(直径約200m位といわれている)で真っ赤な火の玉は、ますます膨張しながら空高く昇っていく(10、000mを超えたといわれている)。

 そして地上から、すさまじい勢いで火柱が吹き上がるように立ち昇り、火の玉の中心部が時折り空洞となり、中では煮えたぎるように燃え、紅蓮の炎が荒れ狂い、吹き出していた。
 その光景は言い表しようもないほど恐ろしかった。ホームに立って、双眼鏡で見ていた陸軍の将校は、兵器使用の弾薬庫がやられたと言っていた。
 あの巨大な火の玉の下にある広島市街一円が、ただ一発の爆弾で一瞬に火の海となり、凄絶・悲惨を極めたこの世の生き地獄と化しているとは全く思わなかった。
 (原子爆弾は、爆心地上空約9、000mのところで投下し、地上約600mのところで炸裂し、表面温度は6、000度、放射能と強烈な爆風を四方に放ち、人々・動物・建物を焼き、破壊した)

 間もなく、私たちの町の小学校が仮の救護所となり、被災者が列をなして避難してこられ、教室が病室となった。
 被災者は、頭髪は焼けちじみ、顔は赤黒く火脹れし、皮膚は垂れ下がり、衣服は焼け焦げ、血にまみれ、半裸の人も多く、まるで幽霊のようで、戸板に横たわり手の間から内臓が垂れ、うめいている者、家族を呼ぶ者、”水をください”と求める者が、箱車や担架などで運ばれていく。口では言えぬ悲惨な光景であった。

 国防婦人会の方が励ますだけで、治療する薬品もなく、うめき声がなくなれば息絶えていた。死者が続出し、火葬場の周囲に幾つもの穴を掘り、松葉を添え、油をかけて火葬する。
 朝早くから夜遅くまで、煙と異臭が街を覆ったのは幾日であったろうか。

 二女の姉は、爆心地から約1.7kmのところに住んでいたが、家の中で下敷きとなり、無我夢中で這い出し我が家に逃げ帰ってきた。

 すぐ上の姉(五女)素さんは、女学生で女子挺身隊、学徒報国隊として市内の軍需工場に通っていた。
 爆心地から約1.4kmの橋上で被爆し、友人4人と母校の女学校へ戻ろうとしたが、火の海だったので、広島駅に向かったが力尽きて京橋川のほとりに横たわり動けなくなり、そこで一夜を過ごした。姉の周りには、足を踏み入れる余地もないほど死体と瀕死の重傷者でぎっしり埋まっていたとのことであった。
 被爆者は次々と水を求めて川に入り、そのまま川下に流れていった。その数は累々としていた。

 夜は更けてゆく。広島の空はまるで夕映えのように赤々としていた。私は昼間の興奮で疲れ、いつのまにか眠っていた。真夜中に目がさめると、母は縁側で広島の空を見上げ、まんじりとせず座っていた。
 私は「お母さん、早よう、寝んさいや」と言ったが、母は何も答えなかった。
 私は自分の子や孫が出来、親が子を思う心を知り、母がその時どんな気持ちで我が子の帰りを待ちわびていたであろうかと思い、また傷ついた姉はどんなに救いを求め、死体に埋もれて心細い思いで待ちわびたであろうかと思う。

 一夜が明け、見知らぬ男性が、連絡を頼まれたと言って朝早く来られ、義兄、三女の姉、従兄が箱車を引いて広島に向かった。そして夜遅く、戸板の上に素さんを乗せて帰ってきた。
 素さんは母に「お母さん、心配かけたね。すみません」と言った。
 母は「よかった、痛かったろう、恐ろしかったろう」と言った。
 頭髪はジリジリに焦げ、セーラー服・モンペの黒い部分が焼け焦げ、皮膚はズルズルに火傷していた。足は素足となり、ザックと足袋は裂け砂をかんでいた。

 夜中に、親類のおじさんが隣の町から山を越えて、手に入らないごま油1升(1.8g)びんを持って見舞ってくれた。
 それをつけるため服を脱がそうとしたが、皮膚と服がくっついて脱がす事が出来ず、痛がる姉に、がまんしてねと言いながら、ハサミで皮膚と服を切り離し、やっと油を塗りたくった。

 8月8日夜、素さんは「お母さん、助けて」を繰り返し、哀願し、翌9日正午、16才の短い生涯でこの世を去った。
 小さいときから私を連れて遊んでくれた素さん、何のためにこの世に生まれてきたのか。 50過ぎた今も、あの日の姿で私の胸に生きている。

 私は、原爆投下後の2日目に、同級生3人で朝早く広島にある中学校へ報告のために家を出た。

 広島市街を目前にし唖然とした。市内一帯に煙が立ち込め、あちらこちらで残り火が燃え、異臭が鼻を突く。煙を通して時折見える建物は鉄筋コンクリート製のビル等、数えられるほどしか残っていなかった。全く信じられなかった。

 壊れかけた橋を渡り、瓦礫の山の間を残り火を避け、黙々と中学校に向かって歩いた。行き交う身近な人を探す人、応援に来た人、皆、形相が変わっていた。時折、死体をつんだ軍隊のトラックが通って行く。途中、土塀の下敷きになった死体、黒焦げの死体、半焼の死体に目を背け、心ながら手を合わせる思いで歩く。橋を渡る時、死体が満潮に乗ってか川下に幾体も浮いていた。また石橋の欄干は吹っ飛んで、川に落ちていた。
 中学校に到着してみると、爆心地から約2.4kmのところにも関わらず、2階建ての校舎は坐っていた。

 私の妻の兄は、私の同級生で中学1年生で、建物疎開に従事していたが、被爆後4kmの沖合いに浮かぶ小さな島に送られ、父・母の名前を呼びながら8月8日息絶えた。

 また、小学校同級生が28人被爆死。この中には、無傷で逃げかえった者、ガラスの破片が刺さった者も数日後に死亡。私の幼友達は校舎の下敷きになり、大ケガをして逃げ帰ってきたが、終戦後、B29の音を聞き「B29が憎い」と言い残して亡くなった。

 そして、私たちの身代わりとなった2年生183名が、建物疎開の現場で被爆死。若し、私たちに休日が与えられてなかったらと思うとぞっとする。

 広島の街は、幾日燃え続けたであろうか。死んだのは人間だけではなかった。多くの馬や犬、猫、鶏や多くの動物が犠牲になったのだ。

 広島の街は雨に洗われ、静かな廃虚となり、まるで死の街であった。
 橋の欄干は飛び、30cm位のコンクリートの歩道は爆風圧でめくれあがり、電車のレールは飴のように曲がり、鉄橋は焼け焦げ傾き、石段に人影を残し、ガスタンクにはくっきりとバルブの影をつけていた。
 市中、至るところに、原爆の威力の物凄さを実証する姿が無数に点在していた。

4)原爆被害

 広島の上空で人類史上、初めて原爆が炸裂し、強烈な爆風と熱線と放射能により、その年の末までに約14万人が被爆死、建物約76、000戸の中、約92%(約70、000戸)が壊滅的に破壊、焼失した。

 そして被爆して生き残った方、家族を探すため、あるいは救援等のため入市した方が放射能による二次障害である後遺症障害の発症で死者は増え続け、昨年8月6日現在で、平和公園の慰霊碑の死没者名簿に搭載されたのは、202、118名となっている。実際の死者はもっと多いだろうと思われる。

 しかも、50年過ぎた今もなお、被爆者は心身に傷を負い、苦しい生活や病気に堪え、しかもいつ発症するかも知れない後遺症障害(つまり時間の経過により、肝臓、胃、肺、甲状腺、乳、その他のガンや白血病等の発症)におびえ、死と向き合って苦しみながら生きている被爆者が多い。

 通常兵器と違って、一発の核兵器によって数十万人の生命を一瞬にして奪うことが出来るし、核兵器の特徴であり恐ろしいのは、放射能がもたらす後遺症で、口や鼻から体内に入り、時間の経過により諸がん等が発症し、生命を奪うこともある。
 殊に、核実験場や原子力発電の爆発事故現場付近や風下の子供たちが、甲状腺がんや白血病の発症により苦しみ、死亡が増大しているといわれている。

 皆様もご承知の通り、今日まで、世界中で約2、000回を超える核実験が実施されている。そのため地球環境は破壊が広がり、大気・水・海洋・土壌汚染が増大している。そしてその他CO2、ダイオキシン等の汚染も深刻化し、人類や動物の生命に影響をもたらしつつある。

 今後も核実験が世界各地で行われるとしたら、生命をおびやかす放射性物質、つまり「死の灰」は、ますます地球環境を汚染し、人類の生存を危うくするだろう。まして、戦争で核兵器をつくって応酬したならば、単に当事者国だけにとどまらず、全地球上の国々へも危機をもたらすのでは・・・と懸念致します。

 私は核兵器は人類を滅ぼすことは出来ても、真の平和を造ることはできないと思う。そしてまた、一国だけの平和は有り得ないと思う。地球が病みつつある今、必要なことは、世界中の人々が”平和の心”を一つとし、一体となって世界平和実現を目指して努力することだと思う。そのためには、核保有国はすみやかに核の全廃に取り組み実行して頂きたいし、核兵器を完全に地球上から消すことだと思う。

 印度・パキスタン両国がお互いに怨念を超え理解を深め合い、仲良く手を握り、世界平和実現にご協力して頂くことを切に願ってやみません。

 私は、子や孫たちに残してやりたいものは、戦争のない、核兵器のない、真に平和な世界を21世紀に残してやりたい。それが大人として、親としての責務であると共に、多くの戦争犠牲に報いることになると思うのです。

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