出版物原水禁ニュース
2003.2号 

3.1ビキニ・デーの歴史と原水禁運動(I)

■ビキニデー以前のヒバクは明らかでない

きたる3月1日は49年前、アメリカが本格的な水爆実験を開始した日であり、静岡県を母港とするマグロ漁船「第五福竜丸」(*写真)が実験海域近くで操業中に、水爆実験による死の灰を浴びて乗組員23人がヒバクした日です。この第五福竜丸のヒバクを契機に、日本中で原水爆実験反対運動が巻き起こりました。日本の反核運動の始まりとなった記念の日でもあるのです。
 当時のアメリカ大統領はトルーマンで、彼は新しい熱核兵器(水爆)の開発を命令し、アメリカは1952年11月に最初の本格的な水爆実験を太平洋マーシャル群島のエニウェトクで行いました。一方ソ連も53年8月に水爆装置をノバヤゼムリヤで爆発させます。米ソの本格的な核開発競争が始まったのです。
 こうして54年3月を迎えるのですが、52年の水爆実験以前にアメリカはビキニ環礁で2回、原爆実験を行っています。さらに52年以降、エニウェトクで9回の水爆実験を行いました。これらの実験は当然のことながら大量の放射性物質を発生させ、マーシャル群島の島々とその島に生活する人々をヒバクさせたのです。当然、マグロや鰹なども放射能で汚染され、周辺海域で操業していた日本の漁船も、ヒバクしたと考えられますが、明らかになっていません。

■広島原爆の1千倍の威力

 アメリカは54年3月1日から5月14日まで6回の地上、水面の水爆実験を行いました。威力は様々ですが、3月1日の地上実験が最大で15メガトンの実験でした。
 実験に際しアメリカ軍は、当日の気象などを参考に危険海域を設定しましたが、放射能物質の広がりは予測をはるかに超えたものでした。
 爆発時の状況を「核の海」(岩波書店)の著者、スチュアート・ファースは次のように書いています。
 「実験は広島1000倍に匹敵する地獄さながらの光景をつくり出していた。直径が数キロもある巨大な火球が、その範囲内のすべての生物に死をもたらし、粉々に吹き飛ばした。熱風が四方八方に吹きまくった。1000キロ離れたところでも感じられたこの風は、爆心点で発生した時速3500キロの衝撃波によって発生した爆風だった。環礁の遠く離れた島々でも樹木がなぎ倒され、礁湖には高さ30メートルの波が発生した。大量の海水が蒸発し、サンゴ礁の一部も消滅して何億、何十億トンもの砂や土、サンゴが吸い上げられ、放射性の粒子となって空中を漂い始めた」と。

■第五福竜丸のヒバクと原水禁運動の始まり

 ビキニ環礁東方約160キロの海域で操業をしていたマグロ漁船・第五福竜丸(乗組員23人)は、この放射能を含んだ珊瑚礁の粒子(死の灰)を大量にあびることになりました。
 3月1日の夕刻から乗組員全員が身体に異常を感じだしました。嘔吐、倦怠感、頭痛など、放射線宿酔いといわれる初期症状が出たのです。
 乗組員たちは閃光と爆発音によって原爆実験だろうと推測しましたが、白い灰に大量の放射能が含まれているとは思いもよらなかったのです。久保山無線長は乗組員の状況を焼津に打電すれば、原爆実験を目撃した事実がアメリカに知れて拿捕されるかもと考え、異変の発信を思いとどまったといいます。
 3月14日夕刻、第五福竜丸は焼津港に帰港しました。第五福竜丸乗員の様子がおかしい。どうも水爆実験でヒバクしたらしいということを読売新聞記者が聞きつけ、その記事を東京本社に送りました。翌16日の読売新聞の朝刊は乗組員23名被ばくと大きく報道し、日本中が大騒ぎとなったのです。
 だがこの実験で被害を受けたのは、日本の漁民だけではありませんでした。マーシャル群島・ミクロネシアの住民はもっと大変な被害を受けていたのでした。だが日本も世界もその事実を知りませんでした。アメリカ政府がヒバクの事実を隠していたこともあり、日本の原水禁運動がミクロネシアのヒバクを知り始めるのは、1971年の被爆26周年原水禁世界大会に2人のミクロネシア代表が参加してからです。
 しかし、日本では第五福竜丸のヒバクに大きな衝撃を受け、各地で原水爆実験反対署名が始まりました。

(W)