出版物原水禁ニュース
2003.3 

3.1ビキニ・デーの歴史と原水禁運動(II)

太平洋住民の被害を考えよう

◆ビキニの被害が明らかになったのは17年後

 1954年3月1日のビキニ環礁で米軍が行なった水爆実験は、第五福竜丸だけでなく他の多くの日本漁船も被害を受けましたが、もっとも被害を受けたのはビキニ環礁の190km東のロンゲラップ島とその属島・アイリングナエ環礁の住民です。さらにビキニから520km東のウトリック島にも死の灰(放射能を含んだサンゴ礁の粉塵)は降り注ぎました。
 しかし私たちが太平洋核実験の被害の実態を知るのは、実験から17年後の被爆26周年原水禁世界大会に2人のミクロネシア代表が参加してからでした。

<死の灰>の降下図
(米国原子力委の発表による)


 大会にはミクロネシア議会のアタジ・バロス下院議員とハワイ大学に留学中のフランシス・ウルドンさんが参加し、ミクロネシアの人たちが被った核実験被害の実態を語り、私たちはその報告に大きな衝撃を受けました。
 バロス議員はまた原水禁に対して、ぜひ調査団を派遣してほしいと要請しました。この要請を受けて原水禁では7名の調査団を71年12月7日から27日にかけて送りました。調査団はまずマジュロ島に到着し、信託統治政府に住民が立ち退きさせられたロンゲラップ、ウトリック島へ行くことを要請しましたが、信託統治政府は許可せず、やむなくマジュロ島に移住していた14名のヒバクシャの健康診断と聞き取り調査を行いました。さらに翌年の原水禁世界大会にロンゲラップの村長、ジョン・アンジャインさんが参加します。マーシャル群島のヒバクシャの原水禁世界大会参加は、住民自身にも大きな影響を与えました。
 こうしてマーシャル群島の核実験被害の実態が日本と世界に明らかなっていっていき、マーシャル住民も米政府に補償を要求し(81年)、一定の補償を勝ち取るのです。

◆島民の救出完了は3月4日

 しかしビキニ水爆実験直後の米政府の対応は、住民を人体実験に利用したとしか考えられないものでした。当時ロンゲラップ島には14家族82人(うち4人は妊娠中)、アイリングナエ環礁には18人、ウトリック島は157人が暮らしていました。
 放射能の危険に気づいた米国政府は、これら島民を避難させるのですが、まず最初に避難したのはビキニから250km東で観測していた米国人28人で、島民が米軍に救出されたのは実験から50時間も経って4段階に分けて行われました。まずロンゲラップの最も症状の重い16人が飛行艇で、1時間後、残りの住民が船で、アイリングナエの住民は58時間後、最後にウトリック島民が移送されました。全員が移送されたのは76時間後、3月4日になってからでした。つまりこの間、ロンゲラップやウトリックの人々は高レベルの放射能のなかに放置されていたのです。

◆漂流するマーシャル群島住民

 島民たちはクェゼリンに3ヶ月過ごした後、AEC(米原子力委員会・医学班)は、ウトリック住民はヒバク線量が低く(平均14ラド)、島の汚染も軽度なので帰島させ、ロンゲラップ住民は引き続き観察が必要なので(ヒバク線量平均175ラド)、マーシャル群島のマジュロ環礁に移し、そこで検査すると決定しました。
 しかしウトリックに帰された住民たちの間に70年代に入って甲状せん腫とガンが多発し、多くの住民が亡くなりました。
一方、マジュロへ移住したロンゲラップ住民の生活は悲惨でした。米国政府は放射能を除去し、新しい椰子の木を植えて安全宣言を行い、島民は57年にロンゲラップに帰りました。しかし帰島1年後から人々の体内ヒバク線量は増大し続け、85年、ロンゲラップ住民は再び島を離れました。今度は190km南の無人島メジャトでした。メジャトへの移住には国際環境保護団体・グリーンピースが協力しました。ロンゲラップの人たちは永遠に生まれ故郷を失ったのです。
 ここでは紹介できませんでしたが、核実験場になったビキニ島やエニウエトク島の住民もまた各地を漂流させられ、悲惨な生活を強いられています。私たちはビキニデーを太平洋の人々のヒバクに思いを馳せ、連帯する日にしなければなりません。

(W)