出版物原水禁ニュース
2003.7号 

《開かれた「パンドラの箱」発刊から1年》
核兵器廃絶を求めるなら 核の「平和利用」も止めよう

■平和利用という名の下に核兵器開発

 イラクや北朝鮮はもちろん、インドやパキスタンであれ、最初から核兵器を開発するといって機材や原材料を調達したのではありません。これらの国々は平和利用という名目で、核兵器開発に手を染めていくのです。ですから地球上から真に核兵器を廃絶しようとするなら、平和利用も含めた核廃絶を実現する以外に道はないのです。
 しかし反核運動に関わっている人たちの間では、核兵器廃絶の運動では政治的立場を超えて運動が進められるが、原発などを含めると幅広い運動が阻害されるという認識があります。こうした考えは広島や長崎の反核運動の指導的立場の人にも、根強く存在しています。
 原子力の平和利用といって原子力施設を建設し、その後核兵器保有国になったインド、パキスタンを例に考えてみましょう

■インドの核武装を誰も疑わなかった

 インドで核兵器開発の道筋をつくったのは、ホミ・バーバーという原子核物理学者で、ホミ・バーバーは1955年にジュネーブで「第1回原子力平和利用国際会議」が開催されたときに議長を務めています。
 インドではこのホミ・バーバーが委員長となって48年に原子力委員会が設置され、54年には原子力庁が設立されました。当時のインド首相はジャワハルラル・ネールで、ネール首相はあらゆる機会に核兵器の実験や製造を非難していました。
 63年に「部分的核実験禁止条約」が成立したときには、米、英、ソ連に続いて署名し、71年1月には議会で「(インドが核兵器を保有しないことを)無条件で保証する」と発言しています。
 こうしたインドの原子力平和利用の姿勢に世界は何の疑いも抱きませんでした。カナダ政府は天然ウラン使用・重水炉(CIRUS研究炉・出力4万キロワット)やCANDU炉など3基の原子炉建設援助協定を結びました。
 しかし74年にインドが最初の核実験を行った際に使われたプルトニウムは、カナダから提供されたCIRUS研究炉から取り出されたものでした。またこの原子炉は減速材に重水を使用しますがこの重水は米国から供給されたものでした。
 このインドの核実験は、世界に大きな衝撃を与え、カナダは原子炉技術や原材料の供給が、核兵器に転用されない保証措置を確立するための会議を呼びかけ、その会議は74年の秋に開催されましたが、すでにこのときフランスは、ウラン濃縮プラント、再処理プラントを韓国、台湾、パキスタン、イラクに輸出する契約を結んでいました。西ドイツもブラジルとウラン濃縮プラント、再処理プラントの契約を結んでいました。
 このとき米国は、仏、独に強い圧力をかけ、韓国は仏との契約を破棄し、台湾はすでに運転中だった再処理施設を取り壊しました(パキスタンへも78年に契約破棄)。イラクへは輸出が進められました(イスラエルへの輸出だけは問題にされず)。
 インドが核武装に方向転換したのは、中国の核武装が大きく影響しています。そしてパキスタンはインドの核武装に大きな影響を受けました。

■インド核実験がパキスタンを核武装へ動かす

 パキスタンは50年代半ばに原子力委員会を設立し、米国の援助で出力5000キロワットの研究用原子炉を建設して、原子力研究を始めました。さらに60年代に入ってカナダの援助で天然ウラン・重水型原子炉を建設します。しかしフランスが提供する予定だった再処理プラント契約が破棄されたため、パキスタンはウラン濃縮施設の建設に切り替えます。そして濃縮プラントの機器を世界各国から分散して買い求めました。パキスタンは最初は原子力の平和利用といっていましたが、インドの核実験後は積極的に核武装を追求し出しました。
 パキスタンの核武装には米国が強い懸念を示し、圧力を加え続けますが、結局インドの核実験が引き金となって、核武装へと進みました。核の軍事利用、平和利用は密接に絡み合っているのです。

(W)