出版物原水禁ニュース
2003.10号 

臨界事故とは何だったのか

反原子力茨城共同行動 根本がん

★人々を震撼させた臨界事故はなぜ起きたか

 放射線ヒバクの恐怖をよみがえさせる9月30日が4度めぐってきました。場末の町工場を思わせる粗末な建物、中性子線警報装置・放射線遮蔽装置もないなかで、裸の原子炉が出現しました。
 1999年9月30日、茨城県東海村にある(株)JCOで、横川豊さんを長とするスペシャルクルーが、転換試験棟内の沈殿槽に 4バッチ分のウラン溶液を入れた。翌30日午前中、残りのウラン溶液を入れ始め、7バッチ目を入れた 10時35分ころ、「バシッ」という音とともに青白い光が作業をしていた3人の労働者を直撃しました。臨界状態は約20時間にわたって続いた。今回の臨界事故の一つの特徴でした。
 二人の死者と664人ものヒバクシャを出した、日本国内の原子力開発史上最悪の事故災害でした。この事故はなぜ起きたのか、JCOの業績不振が続くなかで、その対策に汲々とし、それを理由に設備の改善をせずリストラなど合理化を推し進め、社員に安全や臨界管理の基本的な教育・訓練を行わず、臨界管理や臨界防止の規制措置を講じてこなかった背景がありました。しかも常態化した違法操業を重ね、危険物を取り扱っているという意識も安全感覚もマヒしていました。会社ぐるみの組織事故だと言えます。JCO正門の前で2003年9月28日

★数多くの人がヒバクし、経済活動もストップした

 事故後大内さんと篠原さんが、急性放射線障害による「多臓器不全」で亡くなりました。この二人は、臨界事故を起こした加害者の一部であるとともに、JCOから何らの安全・臨界教育も受けずに、危険な作業をさせられた被害者の側面も持っていました。
 通報が遅れ、村当局が日本で初めての原子力施設事故による避難勧告を発しましたが、住民はまったく無防備なまま中性子線をあびた。350メートル圏内の住民は51時間、10キロ圏内の住民は約18時間、屋内退避で外出が禁止されました。経済活動はストップし、茨城県内の農・水産物をはじめ、観光など長期にわたって打撃を与えました。何よりも周辺住民に与えた中性子線ヒバクによる、健康被害と精神的打撃は大きいのです。4年を経た現在でも、体や精神的な異常を訴える者は絶えません。

★刑事裁判は政府核燃機構を不問・健康被害で住民が裁判

 臨界事故の刑事責任を問う裁判は03年3月の判決で事故の責任をすべてJCOに押しつけ、政府や核燃機構の責任を不問にしました。法律の最高刑を科したとはいえ、住民からみれば「軽い判決」だ。この裁判は刑事裁判のためか、周辺住民の被害は起訴されず、健康被害、経済被害はまったく触れられていません。
 JCOは周辺企業の経済的賠償(風評被害)をしながら、一般住民に対する健康・経済被害については見舞金のみで、賠償をいっさい拒否しています。周辺住民を置き去りにしたのです。
 事故現場から120メートルのところでヒバクした大泉夫妻は、住民の声なき声を代弁する形で健康被害に対する賠償を求めて裁判に踏み切り、昨年9月提訴、第1回裁判は11月開廷、以降第4回まで開かれ、次回は10月1日に開かれます。
 原子力事故による直接的な健康被害に対する住民提訴は初めてです。法廷では低レベル放射線の影響被害、ヒバクによるPTSD問題が争点となっています。地元では「臨界事故被害者を支援する会」を立ち上げて、毎回の傍聴、裁判終了後の懇談によって内容の理解を深め、裁判支援の拡大に努めています。臨界事故4周年集会からデモが出発

★風化の後ろ側でひしめくもの

 臨界事故4周年を迎えた東海村は一見静かなものです。風化が進んでいるかにもみえます。しかし住民は変わりつつあります。核最前線基地としての東海村の各施設は稼働中なのだ。とりわけ核燃料再処理工場は、日本が戦争できる国に脱皮しつつある今、核武装へ結びついていく恐れが強いこともあり、目が離せないのです。想像してください。首都圏に隣接して核施設がありプルトニウムが蓄積されていることを。
〈追記〉9月2日、JCOはマスコミに転換試験棟内部を公開するとの情報が入ってきました。マスコミに公開した後、転換試験棟撤去の計画書を政府に提出し、認可され次第、撤去作業に入るとのことです。「JCO臨界事故評価会議」は文書で試験棟内部の公開を申し入れていましたが、一切回答していません。また周辺住民が撤去前に「住民説明会」を開くようもとめ、必ず開催すると回答していましたが、一切無視したままです。