出版物原水禁ニュース
2004.02号 

1. マーシャル諸島におけるヒバクシャ

 アメリカは、マーシャル諸島を核実験場としてソ連との核開発競争にしのぎを削り、核抑止力を築いていった。アメリカが核抑止力を追求する過程で、マーシャル諸島ではヒバクシャ(核被害者)が生み出されてきた。マーャル諸島におけるヒバクシャは、核被害の要因で類型化すれば、(1)核実験場建設による被害者、(2)風下地域の「死の灰」による被害者、(3)核実験場の再定住計画に従事した労働者、と三分類できよう。以下に、それぞれのヒバクシャたちを概観してみたい。

[上空から見たマーシャル諸島の環礁の一部(写真、撮影:竹峰)。環礁は、「真珠」のような小さな島々が「首飾り」のように環状に連なり、エメラルドの海に浮かんでいる。環状に連なる島々の内にはラグーンと呼ばれる穏やかな内海が広がり、島々の外側にはオーシャンと呼ばれる太平洋の大海原が広がっている。]
マーシャル諸島の環礁の一部

□核実験場建設による被害者

 マーシャル諸島には、自らの島々が核実験場として使用された結果、今も被害を受け続けている人々がいる。それはビキニ環礁民とエニウェトク環礁民である。
 核実験場は、「人類の幸福と世界の戦争を終らせるため」などと言って、ビキニ環礁民とエニウェトク環礁民を自分たちの土地から追い出して建設された。ビキニ環礁が核実験場として選ばれた理由は、当該地が米にとって自由に使用できる地域であり、かつ都市・人口密集地から離れていたからなどであった。当時マーシャル諸島は、米軍の直接統治下(1944〜47年)にあった。1947年には国連信託統治領のなかで唯一の戦略地区(国連憲章第82条)に指定された(〜86年)。
 1954年、水爆「ブラボー」がビキニ環礁で実施されたとき、本来その土地の「主人」であるビキニ環礁民は、避難生活を余儀なくされていた。核実験場建設に伴い、ビキニ環礁住民167人は、1946年3月に200キロメートル以上東にあるロンゲリック環礁に移住させられ、さらに1948年からはビキニ環礁から南へ750キロメートル以上離れたキリ島へ再移住させられていた。いずれの移住先でも、人々は飢餓に直面するなど困難な生活を強いられた。

□風下地域の「死の灰」による被害者


 マーシャル諸島には、自らの土地が核実験場の風下地域にあたり、「死の灰」を直接浴びたり、島々に残る「死の灰」を体内に取り込んだりして被害を受けた人たちがいる。ビキニ環礁とエニウェトク環礁で行われた67回に及ぶ核実験の「死の灰」は、風に運ばれ、マーシャル諸島民が暮らす島々にも降下していた。

上空から見たマーシャル諸島の環礁の一部(撮影:竹峰)。環礁は、「真珠」のような小さな島々が「首飾り」のように環状に連なり、エメラルドの海に浮かんでいる。環状に連なる島々の内にはラグーンと呼ばれる穏やかな内海が広がり、島々の外側にはオーシャンと呼ばれる太平洋の大海原が広がっている。

「死の灰」によるヒバクの典型は、ビキニ水爆被災の爆心地から東約180キロに位置していた、ロンゲラップ環礁にみることができる。
 ビキニ水爆被災当時、ロンゲラップ環礁には82人が暮らしていて、母親の胎内には4人の子どもがいた。1954年3月1日の早朝、ロンゲラップ環礁の西空一面にせん光が光った。それは「まるで太陽がもう一つ昇ってきたようだった」。「三度ぐらい、今まで聴いた事のないような爆音」が轟いた。爆心地から強い風が吹き、地面も揺れ「ヤシやタコノキの葉が激しく揺れ」、「押し倒されそうになった」人もいた。「戦争が始まったと、ヤシの茂みの方に逃げていく人もいた」。
 3月1日の昼頃、ロンゲラップ環礁の上空から、「死の灰」が降ってきた。「死の灰」を浴びた住民は、夕方ごろから体にかゆみや痛みを感じ始め、発熱や吐き気など放射線の早期障害の兆候が見られ始めた。翌日、ほとんどの住民は、体調不良で寝込み、外に出られず、島の初等教育学校も臨時休校となった。しかし人々は、放射能汚染された食糧を口にし、汚染された水を使い生活せざるをえなかった。こうして住民82人と4人の胎児がヒバクした。人々は、実験の2日後に避難させられたものの、住民の間には「なぜ事前に避難をさせなかったのか」、「遅すぎた避難だった」との批判がある。
 ロンゲラップ環礁民は、3年間に及ぶ避難生活の後、アメリカが「安全宣言」を出したため、ロンゲラップ環礁に帰島した。しかし帰島者は、再び自らの島々を去る1985年まで28年間、ロンゲラップ環礁で残留していた「死の灰」によってさらなるヒバクをさせられたのであった。米ブルックヘブン国立研究所による追跡調査のなかでも、帰島から約1年で、帰島者の体内蓄積量は放射性セシウム137が100倍、放射性ストロンチウム90が10倍に達していたことが確認されている。
 ロンゲラップ環礁住民と、(爆心地から東約500キロに位置していた)ウトリック環礁住民を加えた236人は、ビキニ水爆被災の際に「死の灰」を浴びてヒバクしたマーシャル諸島現地の人として、ある程度知られてはきた。アメリカもヒバクシャとしてこの236人を追跡調査の対象としてきたし、ロンゲラップ環礁とウトリック環礁に核被害が及んだことを公式に認め、一定の補償措置をとってきた。
 他方、マーシャル諸島には、「死の灰」を浴びたにもかかわらず、この50年間ほとんど顧みられてこなかったヒバクシャもいる。ビキニ水爆被災に限ってみても、その「死の灰」の降下は、ロンゲラップ環礁やウトリック環礁のみならず、マーシャル諸島北部を中心に、より広範に及んでいた。このことは、当時の米公文書からも確認できる。
 例えば、ビキニ水爆被災の爆心地から東南東約525キロ離れたアイルック環礁には当時401人の住民がいた。アイルック環礁からもせん光は見え、島々には爆音が轟いた。「周りの大人は、これは新たな戦争だと言っていた」、「人生最期の日が到来しているのではと思った」人もいた。水爆「ブラボー」の実施部隊であった米第七統合任務部隊も、「何らかの影響のある放射線降下物(「死の灰」)が達した有人環礁」として当時はアイルック環礁のヒバクに注目していた。そして同部隊は、避難措置を検討したが、最終的には実施を見送った。以後、アイルック環礁のヒバクシャはアメリカの関心の外におかれた。マーシャル諸島には、アイルック環礁民のような、「死の灰」を浴びてヒバクをしたが、放置されこの半世紀の間、ヒバクした島に暮らし続けている「忘れられたヒバクシャ」もいる。

□再定住計画に従事した労働者

「忘れられたヒバクシャ」といえば、ビキニ環礁とエニウェトク環礁の再定住計画に従事した労働者たちの存在も、視野に入れておく必要があろう。労働者たちは、アメリカから核被害が認められていない。彼らについては、地元紙で「ビキニ環礁の労働者から高レベルのプルトニウム検出か」(Micronesian Independent, Sep 3, 1976, P.1)などと報じられたことはあるが、その後の追跡はほとんどされてきていない。
 核実験場であったビキニ環礁では1969年から73年にかけて、またエニウェトク環礁では1972年から80年にかけて、それぞれ放射能汚染除去を含めた再定住計画が実施された。マーシャル諸島には今も、その時核実験場で働いた人々が暮らしている。
 90年代後半、マーシャル諸島内に元労働者たちによる団体が正式に設立された。「多くの仲間が、放射能の問題を抱えている」、「米国籍の元労働者には補償措置がとられた。私たちも」などと、アメリカ政府へ健康管理事業の実施や補償金などを求めている。
 米の核実験場であったマーシャル諸島には、核実験場建設による被害者、「死の灰」による被害者、核実験場の再定住計画に従事した労働者たちがいる。こうしたヒバクシャが、今どのような被害に直面しているのか、次に核被害の中身に目を向けていきたい。