出版物原水禁ニュース
2004.02号 

3.核被害へ立ち向かう現地の動き

 核実験場とされたマーシャル諸島には、核によって平和を破壊されながらも、核被害に立ち向かい現状を打開しようとする動きと、その積み重ねもある。

□核被害への補償や援助を求める国際的PR

 核被害を受けた地域、とりわけビキニ環礁、エニウェトク環礁、ウトリック環礁、ロンゲラップ環礁の地方自治体のリーダーらは、これまで補償を求め渡米を繰り返し、政府や関係省庁や議員らへ請願したり、議会の公聴会で証言をしたりしてきた。彼らは、マーシャル諸島共和国政府とは別に独自の交渉窓口も切り開いてきた。
 マーシャル諸島ロンゲラップ環礁のリーダーらは、ビキニ水爆被災の3年後の1957年から、補償を求め米の弁護士と連携を取りはじめていた。ビキニ水爆被災の直後には、マーシャル諸島から国連へ、核実験の停止や補償要求請願が出されていた。ロンゲラップ環礁をはじめ、核被害を受けた地域のリーダーは、海外のNGOとも一定の繋がりを築いてきた。1985年、ロンゲラップ環礁民が、次世代のために残留放射能の脅威から逃れようと、自らの島からメジャット島への移住を決断したときには、環境保護団体「グリーンピース」に輸送船の提供を求め、移住を実現させた。核被害地の人々は、ロンゲラップ環礁民を中心に、日本の市民との結びつきも築いていった。冒頭で紹介をした1971年の原水禁世界大会以降、マーシャル諸島民は日本の原水禁大会や3・1ビキニデーにしばしば参加してきた。彼らの発言は、援助を求めるものが多かったが、日本の市民へ広島・長崎・第五福竜丸にとどまらない、マーシャル諸島におけるヒバクシャの存在、さらには世界の核被害者の存在とその問題を問いかけてきた。
 こうした核被害への補償や援助を求める国際的PRを積極的に進めてきた、ロンゲラップ環礁選出の故チェトン・アンジャイン元国会議員とロンゲラップ環礁民に対して、1991年「第2のノーベル賞」とも言われているライト・ライブリフッド賞(Right Livelihood Award)が贈られている。

□核実験補償体制の確立とその課題

 ヒバクシャ側からの継続的な訴えが実り、1986年アメリカ政府は、マーシャル諸島共和国政府との間で、一部の核被害とその補償責任を正式に認めた(自由連合協定第177項)。アメリカが認めた一部の核被害とは、ビキニ環礁・エニウェトク環礁・ロンゲラップ環礁・ウトリック環礁の四つの地域に対してである。アメリカ政府は1.5億米ドルを拠出し、それが原資となり「マーシャル諸島核賠償基金」が設立された。
 核賠償基金から、核被害を認定された四つの地域には、(無料巡回診療などの)健康管理措置、(缶詰などの)食糧援助が提供されている。また金銭補償として、ビキニ環礁地方自治体には7,500万ドル、エニウェトク環礁地方自治体には4,875万ドル、ロンゲラップ環礁地方自治体には3,750万ドル、ウトリック環礁地方自治体には2,250万ドルが配分されている。各地方自治体は、独自の基金を設立して投資をしながら、人々へ補償金を配分している。また核賠償基金によって、アメリカ政府とは独立した「核被害賠償法廷」(NCT)もマーシャル諸島に設立され、運営されている。NCTは、核実験の期間中マーシャル諸島に居住し、各種ガンや甲状腺障害など35の病症を患った人に対して、1.25万米ドルから12.5万米ドルの補償金を認定し支払っている。ただしNCTは、財政不足のため分割払いを余儀なくされている。
 核賠償基金とは別に、核被害を認定された四つの地域は、独自に交渉し一定の再定住計画費用や補償金を得たりもしている。確立された補償制度をみると、これで十分なのではという印象をもたれる方もいるかもしれない。しかし現行の補償制度は、これから述べる主に三つの問題を抱えている。
 第一の問題は、「マーシャル諸島核賠償基金」は破産状態であるということである。同基金は、2003年5月現在、原資の95%以上を使い果たし、その残高はわずか約950万米ドルにすぎない。2000年マーシャル諸島共和国政府は、米議会へ核実験補償の追加を求める請願を提出した。2003年には、ヒバクシャらが被害者団体ERUBを創設し、9月にはマーシャル諸島のアメリカ大使館前に集結して、健康管理事業などの継続を求めた。しかし現在までアメリカ側からは基金不足に対応する明確な回答はない。基金不足のため2003年末、健康管理事業が打ち切られた。
 第二の問題は、アメリカ政府から核実験被害が認定されず、補償の対象外とされている地域があるということである。アメリカ政府が四つの地域に対して核被害を認定したというのは、逆に言えば、アメリカ政府は四つの地域以外の核被害を公式には認定していないということである。アメリカ政府側から、核被害認定の基準について、明確な説明はなされていない。核被害が認定されていないアイルック環礁は、健康管理事業の実施を正式に求めている。また再定住計画に従事した労働者も、団体を創設しアメリカ政府へ健康管理事業や補償金の実施などを求めている。
 第三の問題は、補償による依存である。最も多額の補償金を得ているビキニ環礁民の移住先であるキリ島では、補償依存により更なる生活破壊の現実が顕著に見られる。キリ島では、補償金が手に入り、本来の生業を捨てて働かずして生活ができるようになっている。多くの人々が冷房の効いた新しい家の中に閉じこもり、島全体が静かである。自給自足に近かった社会のなかに、補償金による「多額」のお金が流入した。「お金の価値がわからず、新車を買いホテルに泊まるなど浪費して、銀行に借金がある人もいる」と言う。ある人曰く、「かつては誰しも『ビキニ環礁に戻りたい』と心底思っていた。しかし今はお金の方が大切になってきているのでは」という。さらに人々の食の中心は、補償で得ている缶詰である。他の環礁出身で現在キリ島に暮らすある人は、「キリ島住民は主に缶詰を食べるので、ヤシやタコノキ、パンノキの利用方法やそもそも調理方法をあまり知らない」と言う。ビキニ環礁民からは「もっともっと補償を」という声が多数聞かれるが、なかには補償による依存状態を「アメリカによってスポイルされている」などと憂慮している人もいる。
 現行補償を得られれば得られるほど、ヒバクシャの苦痛が軽減され、核問題が解決に向かうというほど事は単純ではない。補償イコール善という前提で補償獲得を目的として補償の量を追求するのではなく、補償の質を問うていくべきではないのか。

□核実験の体験継承

 今まで核被害へ立ち向かう現地の動きのなかではあまり見られてこなかった、自分たちの手で核実験の歴史や体験を学び伝えていこうとする動きが、ここにきて目に見える形で出てきている。核実験の歴史や体験は、次世代に伝えるべきものだという意識が徐々に高まってきているといえよう。
 マーシャル諸島唯一の通学制の高等教育機関である、マーシャル諸島短期大学には、90年代後半から付属の核研究所が設立された。同核研究所には、現在マーシャル諸島で生まれ育った40代前半の女性が所長として常駐している。その所長が講師となり短大で「太平洋における核実験」と題した講義が設けられている。講義では、マーシャル諸島の核実験を中心としながら、広島長崎の原爆投下やフランスポリネシアの核実験についても扱われている。この講義は、受講生にとって、自分の生まれ育ってきたマーシャル諸島で起こった核実験についてはじめて体系的に学ぶ場となっている。
 ロンゲラップ環礁民の間では、ロンゲラップ環礁選出の若手女性国会議員が中心となって、平和博物館の建設が始まっている。この選出国会議員は、「博物館をヒバクシャの歩みを伝え、核被害を思い起こしたり、研究データを蓄積したりするとともに、核実験によって奪われた『伝統』的な暮らしも展示し、継承していく場にしていきたい」と語る。ただ今の段階では、平和博物館が単なるハコモノに終る可能性もあり、施設をどう維持管理し、実際の機能を果たしていけるように活用していくのかは未知数である。
 マーシャル諸島の首都マジュロでは、ビキニ水爆被災の日にあたる3月1日には、近年短大の核研究所も関わって記念式典などの関連行事が開かれるようになっている。記念式典には、核被害が認定されている地域のヒバクシャやその地方自治体と共に、大統領・関係閣僚・米大使ら数百人が参加する。また事前の取り組みとして、2001年には、核実験に関するビデオが地元テレビ局で連続放映されたり、2003年には、ヒバクシャが小学校で体験談を話したりした。
 ビキニ水爆被災から50周年、核被害に立ち向かおうとした現地の動きに目をむけると、ヒバクシャの実情を国際的に訴えてきた人々の足跡もみえてくる。又新たに、核実験の体験継承をしていこうとする動きもみえてくる。

おわりに: 原水禁運動の役割

 ビキニ水爆被災から50周年が経過してもなお、核実験場とされたマーシャル諸島には、核被害に直面し、日常生活の基盤を奪われているヒバクシャが暮らしている。ヒバクシャとは、(1)核実験場建設による被害者、(2)風下地域における「死の灰」による被害者、(3)核実験場の再定住計画に従事した労働者たちである。
 ヒバクシャは、半世紀前の核実験が放出した放射能によって、今も日常生活を脅かされ続けている。あるヒバクシャは、核による放射能によって、生活基盤である自らの土地が奪われ、移住を余儀なくされている。移住先では、本来の生活環境とは全く異なったもとで生活を余儀なくされ、それは伝統的な「文化」の衰退を招いている。核による放射能は、自らの土地を破壊すると共に、人々の健康を蝕んでいる。健康被害を発症させる放射能は、ヒバクシャに強い不安を抱かせている。ヒバクシャとして、心の不安と共に、心に傷を抱きながら暮らしている人々がいる。こうした日常生活に直面している核の脅威を少しでも取り除き、ヒバクシャの平和の度合いを高めていくためには、どのようにしていけばいいのだろうか。
 マーシャル諸島の現地内部には、現状打開への胎動はある。核被害地域のリーダーたちは、核被害の実相を訴え補償や援助を国際的に求めてきた。近年、核実験体験を自らの手で学び伝えていこうとする動きも見られる。こうした現地内部の胎動を見据えながら、ヒバクシャに対する核の脅威を取り除いていくことは、原水禁運動の一つの課題といえるのではないだろうか。
 原水禁は、マーシャル諸島におけるヒバクシャ、更には世界のヒバクシャのことを原水禁運動の取り組むべき問題として、他団体に先駆けて位置づけてきた。こうした積み重ねは、核開発の過程で生み出されたヒバクシャの存在を明らかにしていくことに貢献してきたといえよう。原水爆禁止運動の原点でもあるビキニ水爆被災から50周年を迎えた今、原水爆禁止運動は、引き続き世界のヒバクシャの存在を明らかにしていく役割を担いながら、そこにとどまらない次なるステップを模索検討するときに来ているのではないだろうか。本稿が、マーシャル諸島をはじめとする世界のヒバクシャの存在に改めて思いを馳せ、ヒバクシャに対する原水爆禁止運動の新たな課題を見出すことに、貢献できれば幸いである。