出版物原水禁ニュース
2004.03号 

核科学者が協力するブラックマーケット

パキスタンの核開発
カーン博士がスケープゴートに

■核技術売買のブラックマーケット

パキスタンで「核兵器開発の父」と言われてきたアブドル・カディル・カーン博士が、北朝鮮、イラン、リビアなどにウラン濃縮技術を供与したことが明らかとなり、国際的に大きな波紋を呼んでいる。ドバイを本拠とするブラックマーケットで核技術が売買されていたことも明らかとなった。
 発端は、リビアが「大量破壊兵器を廃棄する」と宣言し、IAEA(国際原子力機構)がリビアの核施設を査察したところ、国際的な核兵器技術の「ブラックマーケット」から核技術を買ったことが明らかとなった。IAEAはブラックマーケットをたどっていったところ、パキスタンに行きついた。また、イランがIAEAに提出した報告書のなかにも、パキスタンの科学者からウラン濃縮に関する技術供与を受けたとの記述があり、その面からもカーン博士の関与が明らかとなった。
 核技術の供与は、1986〜87年に始まり、97年に、北朝鮮への供与がパキスタン治安当局よって摘発されるまで続いたという。
しかしこのような長期にわたる技術供与が、政府の関与なしに進められたとはだれも信じない。とくに北朝鮮とは、弾道ミサイル技術とのバーター取引が行われたとされているだけに、カーン博士をスケープゴートにして、問題を最小限に抑えたいとするパキスタン政府の意図が感じられる。

■国際合弁会社・ウレンコの技術を持ち帰る

 カーン博士は1970年代にウラン濃縮の遠心分離プラント会社・ウレンコ(英、西独、オランダ共同出資)のオランダ工場で働いていた。このときカーン博士はウラン濃縮施設建設に必要なさまざまな材料や装置を、別々の会社から買い付けるショッピング・リストをまとめたといわれる。カーン博士は76年に帰国するが、ウレンコの技術も持ち帰った。
78年、パキスタン政府は必要なあらゆる資材を「繊維工場用」という名目で買い集める。買い集めた先は西ドイツ、オランダ、英、ベルギー、スイス、日本、米に及んでいる。カーン博士はこうした部品を使って核兵器の開発を進めたのであった。

■パキスタンの核兵器保有への執念

 パキスタンの核兵器開発の歴史は古い。1965年、アリ・ブット(後にクーデターにより処刑される)が外務大臣に就任したときから、核兵器開発計画は始まったといえる。それはインドへの対抗からであった。
当時ブットは「もしインドが原爆をつくるなら、われわれは草や木の葉を食ってでも、あるいは飢えに倒れようとも、自前の原爆をつくってみせる」と語っている。ブットは66年に再処理プラントを買い入れる計画を立てたが、覆される。70年にNPTが発効するが、インドは参加を拒否し、パキスタンもインドにならって参加を拒否する。
72年にブットが首相に就任すると、直ちに原爆計画は復活した。パキスタン政府は仏との間で再処理施設の契約を成立させ、ついで米、英、仏、カナダなどにいた多くの原子力科学者を呼び戻した。

■最初から核兵器開発へ走り出した

パキスタンがまず再処理施設の建設から原子力計画を始めたことは、世界の疑惑を招いた。米国はパキスタンへの武器援助と引き替えに再処理施設建設を断念するよう働きかけたが、ブットは拒否する。
74年、インドは初の核実験を行う。パキスタンの核兵器開発へ動きはいっそう加速される。しかしブットは77年7月のクーデターで失脚するが、替わって政権を担ったハク大統領も核開発を積極的に進めた。
 パキスタンの核兵器の保有も時間の問題と懸念されていたとき、仏が再処理施設の契約破棄に動き始めた。  パキスタンは直ちにウラン濃縮へと方向転換した。このとき大きな役割を果たしたのがカーン博士である。
 パキスタンがウラン濃縮を始めたことは米国などの知るところとなり、米はパキスタンが原子力施設について、国際原子力機関(IAEA)の査察を受け入れるよう説得するが、パキスタンは拒否した。米は経済援助の停止などを行ったが、パキスタンは核開発を進める。パキスタンは98年5月、インドの核実験再開にあわせて核実験を成功させ、核保有国となった。
 いったん核兵器を持とうと決意した国は、あらゆる抜け道を探り、核保有の道を追求し続けるのである。核の商業利用が存在する限り、核兵器保有への道も存在し続けることを私たちは認識しなければならない。
2月25日開催の6ヵ国協議でも、ウラン濃縮施設が問題となるだろう。ウレンコ型施設があれば、ウラン原爆の製造は比較的簡単と考えられる。六者協議もまた、もつれる問題を抱えたといえる。

(W)