出版物原水禁ニュース
2004.03号 

ビキニ水爆被災50年
各地で始まった自主的な署名運動

市民が運動をつくっていった大阪の経験

★西脇安さんがガイガーカウンターを持って

3月1日、米国がビキニ環礁で水爆実験を行い、第五福竜丸が大量の死の灰をかぶった事件は、その後、原水爆実験反対の大きな署名運動として日本中に広がっていき、現在の日本原水禁運動の基礎となったことは、私たちのよく知るところである。
原水爆禁止署名運動は、各地で自然発生的に広がっていったというのが正しいが、50年も経った現在、杉並の母親たちの署名運動から説が定着しつつあるので、若干、歴史的事実を明らかにしたい。
1954年3月14日、第五福竜丸が焼津に帰港する。3月16日の読売新聞朝刊に「邦人漁夫ビキニ原爆実験に遭遇」「23名が原子病」と大きく報道される。
すぐに東京から9人の調査団、大阪から5人の調査団が焼津にかけ、乗組員の健康調査や第五福竜丸、さらに持ち帰ったマグロ、サメ、サンマなどの放射能測定が行われた。乗組員23名は東京へ移送すること、魚はすべて廃棄処分することなどが決まった。
さらに調査団の提言を受けて、水産庁は築地、焼津、三崎、清水、塩釜の5港を「遠洋漁業陸揚港」に指定し、ビキニ海域を通過した漁船は、この5港のいずれかに入港して検査を受けることを義務づけた。
大阪から焼津へ行った大阪市立医科大学(現大阪市立大学医学部)助教授の西脇安は、第五福竜丸が持ち帰った魚の放射能の強さから、ビキニ海域以外の魚も放射能で汚染されているのではないかと考えた。
西脇助教授は、阪大医学部、浪速大工学部、大坂市立大理工学部に強力を求め、ガイガーカウンターを持って、大坂中央市場に日参した。大量の魚から強い放射能が検出され、それら魚のすべては廃棄処分となった。この検査は東京・中央市場でも行われることになり、大量の廃棄魚が出ることになった。

★焼津市議会が最初の反対決議

焼津市議会が3月21日、「原子力を兵器として使用することの禁止」を要求する決議を行い、この決議を機に、多くの議会が原水爆禁止の決議を行っていった。 各地で原水爆実験禁止を求める動きが始まった。大阪では、4月8日、阪大病院の職員食堂で初めて水爆実験問題の話し合いがもたれた。この会合は、2年前から原爆の恐ろしさを訴えてきた阪大学生有志の「原爆症研究会」が呼びかけたものである。
ついで4月19日に阪大病院大ホールで水爆実験反対の集会が開催され、このとき集まった団体・個人によって「水爆対策大阪地方連絡会」準備会が結成された。

★全国に先駆けた大阪の運動

「水爆対策大阪地方連絡会」(略称・水爆対)の結成総会は、5月4日、同じく阪大病院大ホールで行われ、約50団体が集まった。連絡会は、理事長に西岡時雄・阪大教授、常任理事に阪大教授の天野恒久と岡野錦也、YMCA・奈良伝、水産物商業協同組合・安井藤次郎、世界母性協会・大野数枝、大阪仏教界・大久保義雄、大阪宗教連盟・松永義通、あけぼの会・堀一郎、新日本平和の会・岩田渉、大阪教組・松沢由夫、婦人有権者連盟・奥野ゆみを選んだ。ほぼ大阪のさまざまな運動体を網羅したといってよい。
結成総会は、原水爆禁止署名に取り組むこと、各地で水爆の危険を訴える講演会を開催して回ることなどを決めている。東京・杉並区で公民館長・安井郁を代表に「水爆禁止署名運動杉並協議会」の結成は5月9日であるから、大阪の運動が5日早かったことになる。しかし署名運動の特徴は、女性たちを中心にほとんど自主的に進められていったことにある。
自主的に署名を集め、どこへ持っていったらよいかの問い合わせが新聞社に相次ぎ、「水爆対」に持ち込まれた。理事の堀一郎(当時、阪大講師)が預かったが、6畳の部屋が署名用紙で一杯になった。
5月19日に中央公会堂で集会が開催され、超満員となったが、それまで大阪市は平和運動に公会堂の使用を許可しなかった。それを実現したのは、大阪水産物協同組合の理事長・安井藤次郎の奔走による。
このような運動は日本の各地で行われたのである。

(W)