出版物原水禁ニュース
2004.04号 

ビキニ被災50周年
原水禁、キャラバンと全国集会

初めてのキャラバンに取り組む

 1954年3月1日、アメリカが太平洋マーシャル諸島・ビキニ環礁で行った水爆実験は、マーシャル諸島住民の生活を根底から破壊するとともに、周辺海域で操業していた多くの漁船に大きな被害を与えました。なかでも第五福竜丸のヒバクは日本に大きな影響を与え、幅広い原水爆禁止運動として全国に広がりました。
 原水禁はこのビキニ被災50周年の今年、はじめて東京・第五福竜丸展示館から神奈川県三浦市・三崎港(当時日本に水揚げされたヒバクマグロの7割ほどを廃棄処分にした漁港)を経て、静岡県焼津市までの非核・平和キャラバンを行いました。

「第五福竜丸展示館」前天王洲付近をゆく第1京浜を川崎へ

 2月28日、第五福竜丸展示館前での出発式では、展示館館長や広島の被爆者、長崎の被爆二世が発言しました。その後行進は、約80名が神奈川県境まで約10キロを歩き、神奈川に引き継ぎ、翌29日に、神奈川県内で街頭行動を行いながら、三崎漁港で「水爆被災50周年市民つどいin三浦」集会を開催し、約400名が参加しました。

集会では、軍事評論家の前田哲男さんが「ビキニ水爆被災が問いかけるもの」と題して講演を行いました。
「三崎では「死の灰」を浴びたマグロ漁船が280隻もあり、焼津よりも大きな被害(人的にも経済的にも)を受けた」ことや、「核拡散を非難するブッシュ政権が小型核の開発など核軍拡をつづけようとする大国の身勝手さ」「広島・長崎、ビキニ被災の被害を受けたヒバク国として核の傘から脱却し、核廃絶を訴えるべきだ」と訴えました。
また地元のジャーナリスト・森田喜一さんからは、第五福竜丸のヒバクが明らかになった当時の、三崎の漁船が受けたヒバク状況や、漁船員が受けた差別、地元の経済的損失の大きさなどの報告がありました。
 キャラバンは、3月1日に静岡市内での街頭行動と「被災50周年3・1ビキニデー全国集会」に合流し、3月2日には、焼津の弘徳院での、久保山愛吉さんの墓前祭に参加し、ゴールしました。

ビキニ被災50周年3・1ビキニデー全国集会

午後6時から、静岡県女性総合センター「あざれあ」で開き約500人が集まりました。
まずフォト・ジャーナリストの豊崎博光さんが、多くの映像をスライドで映しながら、淡々と、しかし恐ろしい事実を参加者に語りかけました。それは私たちの記憶の彼方に去りかかっていた歴史を呼び起こしたのでした。

ビキニ・デー集会・静岡静岡の集会参加者豊崎さん、大石さん

原水爆禁止運動誕生のきっかけとなり、世界に運動を広げた第5福竜丸事件。広島に落とされた原爆の1000倍の威力だったブラボー実験をはじめ、米国は1946年から58年の間にビキニ環礁で23回、エニウェトク環礁で44回の核実験を行っています。爆発の総威力は、広島原爆7000発分にのぼります。
1971年の原水禁大会でミクロネシアの代表がマーシャルの核被害を訴えてから、隠されていた太平洋の核被害者との関わりが、原水禁運動を大きく国際的に成長させたのです。スクリーンの向こうに見えるマーシャルの人々は、米軍の「都合」でヒバクさせられ、また、放射能の人体への影響を調べるために、意図的に実験台にされました。医療データを提供してきた島民たちは、ごく一部の補償を受けただけで、放射能被害の全貌も明らかにされていません。多くの課題が残されていて、原水禁運動の、新しい運動として取り組むことを促しています。
豊崎さんに続いて、昨年「ビキニ事件の真実」(みすず書房)を出版した、第五福竜丸の元乗組員・大石又七さんが話をされました。
大石さんは、自身のヒバク証言と、日・米間の政治決着でビキニ・ヒバクシャが切り捨てられていった歴史を語りましたが、その話から、私たちは、ビキニ水爆の被害が全国の遠洋漁業に携わった人たちに及んでいたが、日米両政府は一切「ヒバクシャ」として扱って来なかったこと。このため、多くの漁民が差別を恐れて口をつぐみ、さまざまな病に苦しみ続けてきた実態を想像することができました。

ビキニ事件の真実―いのちの岐路でパンフレット:ビキニ水爆被災50年水爆ブラボー―3月1日ビキニ環礁・第五福竜丸