出版物原水禁ニュース
2005.5号 

非戦・反核を歌い続けた詩人
栗原貞子さんを悼む

1940年から戦争批判の詩を書く

 今年3月5日は原水禁が結成されて40年目に当たります。原水禁は広島市で記念集会を開催しましたが、その翌日の6日、栗原貞子さんが92歳で亡くなられました。

栗原さんは亡くなるまで非戦と反核の立場を貫きました。1913年生まれの栗原さんは17歳のときに「中国新聞」文芸面で短歌革新の新進歌人としてデビューしますが、18歳のときにアナーキスト栗原唯一さんと駆け落ちするようにして結婚します。唯一さんは召集され、中国へ送られますが病気で除隊となり、広島へ帰ってきます。貞子さんは唯一さんから中国で日本軍が何をしているかをつぶさに知ります。こうして貞子さんは戦争批判の詩や歌を秘かに書き始めたのです。40年代の始めです。

敗戦後の46年にこれらは詩歌集「黒い卵」として自費出版されますが、このときは占領軍による検閲があり、「戦争とは何か」を含むいくつかの詩と短歌が削除されました。83年7月に人文書院から完全復刻版として出版されますが、それでも検閲で削除された3編の詩のうち2編は残っておらず復刻できなかったのです。

詩歌集の題ともなった「黒い卵」という詩や同じ詩歌集に掲載されている「季節はずれ」「手紙」「日向ぼっこをしながら」などの詩は「私の反戦思想の基になっている思想的立場を意味する作品である」と栗原さん自ら書いています(人文書院「黒い卵」)。その詩を読むと、希望をもち、裏切られ、しかし希望を捨てないで生きてきた栗原さんの心の一端を見ることができます。 栗原さんはいつも生活者としての視点から詩を書いてきました。時として激しいのですが、原水禁世界大会などでお会いする栗原さんは、いつも穏やかでした。

広島原水禁常任理事として

栗原さんは日本の敗戦後、唯一さんらとともに中国文化連盟を結成し、機関誌「中国文化」を発行します。こうした文化運動と共に原水禁運動にも積極的に参加されました。ソ連が核実験を再開したときには強く抗議し、広島原水禁結成のとき以降、広島原水禁常任理事として原水禁運動に参加されました。

非核太平洋会議や核被害者世界大会にも参加し、太平洋やウラン鉱山、チェルノブィリの核被害者に、同じヒバクシャとして連帯し、心を痛めました。

[ヒロシマというとき]

<ヒロシマ>というとき
<ああ ヒロシマ>と
やさしくこたえてくれるだろうか
<ヒロシマ>といえば<パールハーバー>
<ヒロシマ>といえば<南京虐殺>
<ヒロシマ>といえば 女や子どもを
壕のなかにとじこめ
ガソリンをかけて焼いたマニラの火刑
<ヒロシマ>といえば
血と炎のこだまが 返って来るのだ

<ヒロシマ>といえば
<ああ ヒロシマ>とやさしくは
返ってこない
アジアの国々の死者たちや無辜の民が
いっせいにおかされたものの怒りを
噴き出すのだ
<ヒロシマ>といえば
<ああ ヒロシマ>と
やさしくかえってくるためには
捨てた筈の武器を ほんとうに
捨てねばならない
異国の基地を撤去せねばならない
その日までヒロシマは
残酷と不信のにがい都市だ
私たちは潜在する放射能に
灼かれるバリアだ

ヒロシマしいえば
ああ ヒロシマと
やさしいこたえがかえって来るためには
わたしたちは
わたしたちの汚れた手を
きよめねばならない

 栗原さんは亡くなるまでに500編以上の作品を書きました。原爆投下後、負傷者がひしめく避難所で赤ん坊が生まれる感動をうたった「うましめんかな」は代表作のひとつとして広く知られていますが、ここに紹介した「ヒロシマというとき」は72年5月に書かれた詩で、栗原さんにとっても一つの時代を象徴する作品です。栗原貞子さんの詩集は、ほとんどの公立図書館に置かれています。ぜひこの機会に栗原さんの作品を読んでください。


(W)