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2005.5号 

米軍・自衛隊の再編・再配備とミサイル防衛(2)

アジアにおける米軍再編の行方は

 米軍再編とそれに伴う自衛隊再編はいまひとつ明らかになっていませんが、それでも少しずつ具体像が見えてきました。日本政府は自治体などの対応を計りながら少しずつ進めていく考えですが、米軍は早く具体化することを求め、今年夏までに開催される「2+2」(外交・防衛閣僚による日米安保協議委員会)でほぼ概要が決まるでしょう。

米軍と自衛隊の再編計画で、これまで明らかになってきているのは、(1) キャンプ座間への米陸軍第1軍団司令部の移転はほぼ確定してきた。(2) 横田基地の第5空軍司令部とグアムの第13空軍司令部が統合されるが、横田空軍司令部の要員240人の大幅な縮小は行われず、司令部機能は維持される。司令部要員の移転もハワイなどに変更される。横田基地には府中の航空自衛隊・航空総隊司令部が移転し、日米共同使用となる。さらに民間使用も認める。(3) 沖縄の負担軽減で最大の目玉となっていた普天間飛行場の辺野古沖への移転は、完成まで時間がかかりすぎるとして、新たに伊江島へ移転し、普天間の管理権は自衛隊に移す案などの検討などです。沖縄の負担軽減は実質的には望めないというのが実態です。

ミサイル防衛計画は60年代から始まる

ミサイル防衛の考えは、ミサイル兵器が生まれたときから存在しています。矛と盾の関係で、勝れたミサイルが生まれた瞬間、それをどう防ぐかが考えられるのです。このミサイル防衛についての開発は1956年頃から米ソ間で始まっています。

64年のソ連革命記念日にモスクワでABMが姿を現し、66年秋にはモスクワ周辺に配備されていることが確認されました。米国はソ連にABMの撤去を要求しますが、ソ連のフルシチョフ書記長は拒否します。このため米国は薄いABM網(センチネル)の建設に取り組みます。センチネルはボストン、シカゴ、シアトル、ワシントン、ニューヨーク、ロサンゼルス、ホノルルなど15近い主要都市周辺に配備する計画でした。

しかしこのセンチネルはきわめて荒っぽいもので、レーダーで相手のミサイルをキャッチしたら、2メガトン(広島原爆の12.4倍)の水爆搭載ミサイルを使って大気圏外で迎撃し、迎撃に失敗したら、次は10キロトンの核ミサイルで迎撃し、高度5万フィートの上空で撃墜するというのでした。

この計画に衝撃を受けた米国民は各地で次々と反対運動を組織し、米上院軍事委員会委員の多くも反対したため、センチネル計画は中止になりました。

だが米政府はソ連とABM条約交渉を開始し、米上院軍事委員会が関与できない外交問題へと場所を移したのです。こうして72年に米ソ間の弾道ミサイル防衛(ABM)制限条約が締結・発効しました。条約は74年に改定され、首都もしくはICBM基地周辺のどちらか1ヵ所の半径150キロ以内に迎撃ミサイル100基まで配備することが認められました。しかし米国はグランド・フォークスに導入したABMシステムを直ぐに撤去しました。電磁パルスによる障害があまりにも大きかったからです。ソ連はモスクワ周辺に現在に至るもABM網を配備しています。

レーガンのSDI計画

次に米国にミサイル防衛問題が持ち上がったのは、レーガン大統領のときです。レーガン大統領は83年3月にテレビで演説し、SDI=宇宙基地からレーザーで敵ミサイルを破壊する防衛計画を発表しました。この計画をレーガン大統領に吹き込んだのは、ローレンス・リバモア核兵器研究所の創設者・エドワード・テラーでした。テラーは自ら「第3世代の兵器」と賞賛するX線レーザー兵器を開発していました。

しかしSDI計画はABM条約に抵触しました。ABM条約には「その国の防衛のためのABMシステムをてんかいしないこと、及びそのような防衛のための基地を準備しないこと」(第1条2)とありました。またその実現性にも多くの科学者から疑問が出されたのですが、レーガン大統領は5年間で300億ドルという研究費をちらつかせ、ヨーロッパや日本をSDI計画に誘いました。こうして英国、西独、日本の企業が誘いに乗りました。

それでも結局SDI計画は膨大な予算を使うだけで実現の見通しがなく、次のブッシュ大統領のときに大幅に計画が縮小され、クリントン大統領のときには「SDIの時代は終わった」と宣言されました。

このように一旦は消えてしまった計画が、ブッシュ大統領になってミサイル防衛(MD)計画として復活したのはなぜでしょう。それを理解する大きな鍵は軍需産業の強い要求があります。


(W)