出版物原水禁ニュース
2007.5 号 

インタビュー岩松繁俊原水禁議長
誠実に良心をもって反核運動を築いてほしい

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【プロフィール】

1928年長崎市生まれ。45年8月9日、爆心地より1300mの地点で被爆。1952年東京商科大学(現一橋大学)卒業。長崎大学経済学部において、経済学史・社会思想史を教え、とくにバートランド・ラッセルの研究を行う。62年から長崎原水協(分裂以前)理事、原水禁長崎県民会議事務局長、原水禁国民会議事務局次長などを歴任し、97年に原水禁国民会議議長に就任。「反核と戦争責任」、「戦争責任と核廃絶」など著書、論文多数。

──被爆された時の状況から教えてください。

学徒動員で、長崎工業経営専門学校(長崎高等商業学校)2年生のときに、三菱重工長崎兵器製作所大橋工場で働かされ、そこで被爆しました。奇跡的に軽い外傷で済みました。しかし、工場や市内はめちゃめちゃになっていたので、たくさんの被爆者や死体の中をさまよい、救急列車で諫早駅に運ばれて、そこの小学校に収容されました。

──その後、日本が降伏しましたが、どう受け止められましたか。

私はもともと天皇制教育を徹底して受けており、非常に忠実な学生でしたから、日本国が負けるわけはないと思っていました。「天皇と大日本帝国を守れ。そのために命を投げ出せ」という命令を正しいと信じていました。8月15日の玉音放送は、音声が悪くてラジオからの天皇の声がよく聞こえず、負けたのか勝ったのかよくわかりませんでした。3日間もわからず、迷いつづけました。もし負けたのなら、自決しなければならならないと思っていました。「天皇に申し訳ない、お詫びしなければいけない。かみそりで頚動脈を切って自殺しなければならない」と思いつめていました。しかし、長崎市内を巡回してきた軍人が、マイクで「アメリカ軍が上陸してくる。婦女子は山や田舎に避難せよ」と叫びつづけていました。これを聞いた私は、「これは大変だ。自決しているときではない。親戚の子どもたちを助けにいかなければならない」と外出しました。こうして自決の機会を逸してしまったのです。

──軍国少年だった岩松さんが、平和や原水禁運動にかかわるようになったきっかけ何だったのでしょうか。

長い時間をかけて、すこしずつ私の思想が変わってきましたが、やはり原爆の影響が大きいですね。1948年に東京商科大学に入学し、近代経済学を学びましたが、社会思想史を教えていた大塚金之助先生の天皇制・軍国主義を否定する考え方に非常に共鳴しました。いままで正しいと考えていた天皇制教育を否定し、ヨーロッパなどの革新的な思想などを紹介してくれました。しかし、戦災後の東京は、その傷跡も大きく、長崎の原爆被害に関心を持つ人もいませんでした。私は東京で長崎での原爆被爆体験を語りたいと切望していましたが、私の希望がかなえられる状況ではなく、全く失望して長崎に帰りました。

60年安保の翌年、二人目の子どもが生まれて、自分の一生の仕事をはっきり決めなければならないと思いつめるようになりました。当時、部落解放同盟長崎県連合会の磯本恒信委員長と親しくなりました。彼は、長崎原水協の役員で、私に教宣担当の役員となって原水協を支援して欲しいと依頼されました。私は、喜んで承諾しました。それが運動に入るきっかけですね。

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長崎・爆心地公園で
子どもたちと献花

──その後「原水禁」と、共産党系の「原水協」の歴史的な対立が起こりますね。

私は、「ソ連であろうとアメリカであろうと、いかなる国の核兵器にも反対」という立場で、原水爆反対闘争をすすめてきました。ソ連の核兵器に「賛成」という共産党系の立場には組みしませんでした。

1977年から85年にかけての、原水禁と原水協が統一して大会を開いてきましたが、正直言って「だまされた」という感じでした。共産党は一時、「いかなる国の核実験にも反対」と主張をしましたが、結局、私たちの主張に反対できなかったということではないでしょうか。私は、統一問題にこだわらず、それぞれが運動をつくっていくことで当面はいたしかたないと思っています。私は、バートランド・ラッセルの信念にもとづいて、人類的視野に立って、いかなる国の核にも反対するのが唯一の平和運動だと信じています。

──そのイギリスの哲学者バートランド・ラッセルと交流が深かったようですが、それをお聞かせ下さい。

バートランド・ラッセルとは、1962年から交流が始まりました。最初、日本で被爆した者として、「核兵器廃絶、平和な世界の建設に努力いたしましょう」と訴えた手紙を出したのに対して、こんな偉い人がすぐに返事の手紙を書いて下さったことに感動して交流がはじまりました。原水禁運動を進める私にとってたいへんな助けになり、「ラッセル平和財団日本資料センター」を開設して、ラッセルのベトナム反戦運動などを日本に紹介しました。全国の志を同じくする人たちに支持を呼びかけて支えてもらい、平和運動を豊かにしていただきました。学生にも講義しながら、ラッセルのことを紹介しました。人類的視野にたって、いかなる国の核兵器にも反対するのが真の平和思想だという考えは、ラッセルの確固たる思想でもありました。

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日本の捕虜となった
オランダ人との交流
(99年・ハーグ)

──岩松さんが日本の戦争責任、加害者性を強調されるのは、60年代後半からですが、「加害と被害の二重構造」について、どう考えたらいいのでしょうか。

初期の原水禁運動は広島・長崎における被害者救済運動から出発しました。しかし被爆地において原爆の残酷さを体験した人はけっして日本人だけではないということがすぐにわかってきました。なぜ日本の中に外国の人たちがおられるのだろうかと考えると、すぐに事情がわかりました。日本帝国は朝鮮・韓国・中国、その他のアジアの国々に侵略していって、捕虜にし、奴隷にし、虐待していったという残酷な歴史が明らかになってきました。しかもこの冷酷な虐待については、日本軍隊は日本に帰国してもだれにもしゃべるなという、かん口令を厳しく発令しました。だから日本の民衆は日本軍隊の残酷な侵略の蛮行を知りませんでした。

私は、かつて日本が侵略したり対戦した国々にでかけていったときに、そこの民衆から日本軍の蛮行を聞かされました。そこで、私は広島・長崎は被害をうけたけれども、日本も対戦国・侵略国でどんなにひどいことをしてきたか知りました。だから私は日本は「加害・被害の二重構造」の論理で自己批判しなければならないのだと考えるようになったのです。

──原水禁運動に期待することや、後輩たちに残しておくメッセージをお願いします。

私は、これまでたくさんの国々の平和活動関係のみなさんに、私の「加害・被害の二重構造」の論理で語りました。すると、話が終ったとき、みなさんが一斉に大きな拍手をしてくださいましたし、責任者がわたしのところへきて、「大変すばらしいお話をしていただいてありがとうございました」という感謝の言葉をのべて握手していただきました。たくさんの被害者やご家族の方々からも、「実はこういうことがあったのです」と教えてくださいました。それはそれは聞くに堪えない恥ずかしい残酷行為です。今の安倍内閣も、学校の歴史教科書に従軍慰安婦その他は記載しないようにという指示を出して、やはり日本国民に知らせないようにと工作しています。そういうことでは、世界の国の人々は日本政府や日本人のいうことを信用できないと考えています。こういう日本政府の政策では、日本の平和運動まで信頼されなくなります。

私は、これまでの世界の良心的な方々との堅い平和のきずなを築いてきた体験から、一層、平和のきずなを堅くするために、誠実で謙虚で良心的な心をもって、日本の歴史・世界の歴史を研究・勉強して、ほんとうの平和・反核・反戦運動を築いていかれるよう心から希望いたします。教科書に嘘を書かせて嘘の教育をせよと学校教育に強制する自民党内閣は平和を口にする資格などありません。

〈インタビュ─を終えて〉

岩松議長、ご苦労様です。岩松議長の被爆したときの状況、「軍国少年」が平和・反核運動への確信を作り上げて行く過程について、そして反戦・反核の運動について、お話をいただきました。誠実なお人柄が、一言、一言から、伝わってきます。そして岩松思想の核心ともいえる「被害と加害の二重構造」についても、話していただきました。また安倍自公政権が、「憲法9条を改悪」へ踏み出そうとしていることについて、怒りをもって語り、私たちの任務の重さを改めて強調しました。もう一度岩松議長と反核・平和への決意を固めました。 〈福山真劫〉