出版物原水禁ニュース
2007.7 号 

科学技術の「発達」を考え直す必要性がある
インタビュー: 原水爆禁止日本国民会議 市川 定夫議長

市川 定夫先生

【プロフィール】

1935年大阪府生まれ。京都大学大学院修了。農学博士。米国ブルックヘブン国立研究所研究員、メキシコ国立チャピンゴ農科大学大学院客員教授、埼玉大学理学部教授等を経て、現在、埼玉大学名誉教授。その間、伊方原発訴訟や原爆症認定訴訟などの原告側証人として放射線と遺伝の関係を証言。また、ムラサキツユクサの研究は有名で、ごく低線量でも生物に影響があることを証明。1995年から原水禁国民会議副議長を務め、今年4月に議長に就任。


──1935年お生まれですが、戦争体験の記憶で残っていることはありますか。

 当時は大阪市天王寺区に住んでいましたが、自宅が焼夷弾で攻撃されて、浅靴をはいて防空壕や国民学校に逃げたりしました。その後、母が結婚前にいた金沢に移り、戦後、新制中学1年までいました。金沢は戦争中、京都、奈良と同じように空襲がなかったのですが、飛行機からの機銃掃射が少しありました。アメリカの戦闘機の攻撃で、国民学校で非常に仲の良かった自転車屋の友人だけが亡くなったことが鮮明に記憶に残っています。

──その後、遺伝学との出会いはどこからだったのでしょうか。

 私が中学2年の時から大阪・北河内の神社の社務所に住むことになりました。中学2年の時、周りにあまりにもいろいろな種類の鶏が交配して雑多な種類の鶏が飼われていることが目につき、鶏の遺伝に興味を持ったのが最初でした。これは医師だった父の影響だと思います。父が持っていた遺伝の本を見て興味を持ちました。父が、鶏の新種(ミノルカ、横斑プリマスロックなど)を20羽ほど買ってくれて、鶏小屋を建てて観察をしました。そして、4種類の遺伝に関する発見をし、文部大臣から表彰されたりしました。

 そのようなことから、京都大学では、農学部で遺伝学を専攻しました。カラスムギ(燕麦)の遺伝を調べたり、学内でも遺伝研究のサークルを作ったりしました。大学院に進んでからはショウジョウバエなどの遺伝研究もしました。

1965年にアメリカの国立研究所が日本人にも開かれ、戦後初の正規研究者としてブルックへブン国立研究所(ロングアイランド)に赴任、65年8月から67年2月までそこで遺伝学を研究していました。その後、京都大学で1978年まで研究を続けましたが、その間、ペルーとボリビアへ植物調査に行き、71年〜72年には、メキシコ国立チャピンゴ農科大学大学院で客員教授を務めたりしました。

──そのような市川さんが、どのような経緯で原水禁運動に関わったのでしょうか。

 京都大学で化学系の先生を助けて、原爆に被爆した植物、動物などの調査を行ったり、化学、物理などの先生に頼まれ、石や瓦などの破片を集める手伝いをしたのが、原爆とかかわった最初です。その後、毎年のように広島に行き、78年に初めて原水禁運動に関わるようになりました。

──市川先生は、「ムラサキツユクサの研究」が有名で、全国の脱原発運動のなかで取り組みが進められましたが、どのようなことでしょうか。

 アメリカのブルックヘブン国立研究所生物部のスパロー博士と共同で放射線生物学の遺伝研究を始め、その中でムラサキツユクサを取り上げました。ムラサキツユクサの、青とピンクのヘテロ(遺伝子の組み合わせ)は、微量の放射線と遺伝の関係を調べる上で格好のもので、放射線が生物細胞に与える影響を個々の細胞単位で直接的かつ確実に観察することが可能だったことです。

ムラサキツユクサのおしべの毛は一列に並んだ細胞から成り立ち、おしべの毛は先端部分の細胞分裂を繰り返して発達しますが、それが放射線などの影響で青の優性遺伝子に突然変異が起こるとピンクになり、それを容易に観察できるという特徴を持っているのです。それまで低線量あるいは微量の放射線の影響についてほとんどわかっていないのに、「微量なら安全」「微量なら無視できる」と宣伝されてきましたが、これにより、微量でも突然変異を起こすことを証明したのでした。

その後、浜岡原発の試運転のときに、地元の高校の生物の先生がこのことを知り、ムラサキツユクサを使って放射線と突然変異を調べることを提案し、74年から浜岡原発周辺で調べ始めました。試運転が始まったときから突然変異が増え、そのことが新聞・雑誌で話題になり、全国各地の原発周辺でも調査が進められました。

76年から高浜や島根原発で、78年には東海村でも始まり、結果はどこでやっても同じように出ました。海外でもアメリカやドイツなど原発周辺でムラサキツユクサが使われました。このことは、推進側がわからないようにしていた放射線を、ムラサキツユクサを使って科学的に明らかにしたことに意義がありました。私はこのことを岩波書店の「科学」で「ムラサキツユクサは訴える」として紹介しました。

ムラサキツユクサを使って原発に関わるきっかけができました。いまでも、ムラサキツユクサは特別なものという人もいますが、すでに海外でも認められているので、あからさまに否定できる人は少なくなっています。

07年6月・釜山
韓国被爆二世の会の李会長
(左)と(07年6月・釜山)

──被爆二世の運動にも関わり、6月の韓国・釜山で行われた日韓被爆二世シンポジウムにも出席されましたが、そのときの印象はいかがでしたか。

 日本では、被爆二世もかなり認識されてきていますが、韓国ではあまり知られていないようです。これまでも韓国の被爆者は、韓国内でも放置されていました。それに日本政府もなかなか認めず、補償もせずにきました。放置してきた日本は重い責任があると思います。在外被爆者の補償をしっかりすると同時に、二世・三世の対策も同様に行う必要があると思います。

──ムラサキツユクサの研究を発表されて以降、研究はどのような方向に進まれましたか。

 80年代からは、人工化合物と人工放射線の問題を追及しました。すでに人工化合物は9万種類ともいわれ、これまでの人類が経験したことがない状況を招いています。これまで人類は、人工物に対して識別能力を持っていなかったし、そのことを知りませんでした。人工化合物と人工放射線の2つを合わされると相乗効果が発揮され、そのことが人類の種としての生存にとって非常に脅威となるものです。自然界になかったものを人間が作るべきでなかったと思っています。その象徴的なものとして、核兵器、原発、劣化ウランがあります。

──最後に新しい議長として、今後の原水禁運動への抱負をお願いします。

 今後の原水禁運動を進めるうえで、私のこれまでの研究成果を活用して欲しいし、それを理解してくれる人を増やしたいと思います。特に、低線量放射線の問題や人工放射性核種と人工化合物との相乗効果などは、核兵器、原発などを廃絶するうえでも重要なポイントだと思います。自然界には存在しなかった、つまりあらゆる生物がかつて遭遇したことがなかったもの、適応のすべを知らない多様な人工のものが、どうして私たち人類や他の多種多様な生物に繁栄をもたらしうるのでしょうか。

 私たちは、長年にわたって、科学技術の「発達と発展」という、誤った「宗教」を信じさせられ、誤った道を辿ることを強要されていたのです。こうした事実を真剣に改めて考え直す緊急の必要性が迫っているのです。それを原水禁運動の中でも訴えていきたいと思います。

〈インタビュ─を終えて〉

今回は市川先生のインタビューです。森滝さん、岩松さんを引き継ぐ、原水禁の議長に就任されました。私は、労働運動に参加した1970年代に、大阪で、市川さんの「ムラサキツユクサ」による原発の告発を知りました。そのことが、市川先生との最初の出会いでした。原水禁は、現在、多くの課題に直面しています。市川さんのご奮闘が期待されています。ぜひ頑張ってください。  (福山真劫)