出版物原水禁ニュース
2007.8 号 

62年目のヒロシマ・ナガサキの日を前にして
 原爆文学が語る衝撃

 私たちはまだまだヒロシマ、ナガサキを知らない

占領軍の原爆報道禁止

 1945年8月15日に日本は降伏し、米国などの占領軍が日本にやってきますが、広島、長崎の状況がどのようなものなのか、まったく知りませんでした。

最初に広島に入った外国のジャーナリストは、英・ディリー・エキスプレス紙特派員、ウィルフレッド・バーチェットで、彼は9月3日に広島に入り、発信した記事は世界に大きな衝撃を与えました。バーチェットは「30日後のヒロシマでは、人がなお死んでゆく。それは神秘的な、そして恐ろしい死であった。その人たちは、あの大激変の時に無傷であったのに、何ものかわからない、私には原爆の疫病としか描写するほか無い何ものかによって死んでゆく」と書きました。

しかし、同じ頃来日した「米・原子爆弾災害調査団」(団長・ファーレル代将)は、「広島、長崎には原爆で死ぬべき人は死んでしまったから、放射能の影響で苦しんでいるものは皆無である」と発表していたのです。

 調査団は9月8日に広島入りし、数日後に長崎を訪れました。調査団がそこで見たのは、何万人という生存者が放射能で苦しんでいる姿でした。驚いた調査団はただちに報道管制を敷き、広島、長崎を外国人記者の立ち入り禁止区域に指定したのです。

 さらに占領軍は9月12日に、日本に与えるプレスコードを発令します。プレスコードは「連合国に対し、事実に反したり利益に反する批判をしてはならない」「進駐軍に対し、破壊的な批判を加えたり、不信や怨恨を招くような事項を掲載してはならない」とあり、とくに原爆被害の記事に関して厳しく、この規制は新聞だけでなくすべての刊行物にも適用されました。

 敗戦後の日本ではあらゆるものが不足していました。紙不足とプレスコードによって、広島の悲惨な状況の報道も、発表も禁じられました。しかし広島の人たちはひそかに広島の惨状を歌や詩、小説などに書き始めていたのです。

正田篠枝と「さんげ」

 もっとも早く原爆についての作品を発表したのは正田篠枝の「さんげ」という100首の歌を収録した歌集だといわれています。

鈴なりの 満員電車宙に飛び 落ちてつぶれぬ 地にペシャンコに

燃える梁(はり)の 下敷の娘 財布もつ手をあげ これ持って逃げよと 母に叫ぶ

仁王像の 如く腫れあがり 黒く焦げし 裸体の死骸が 累々とかさなる

子をひとり 焔の中に とりのこし 我ればかり得たる命と 女泣き狂ふ

これは「さんげ」に収録された歌の一部です。

正田篠枝は1910年に広島県安芸郡江田島村で生まれました。結婚し、一児を生みましたが夫は40年に病死しています。原爆投下の時は広島市平野町で父正田逸蔵とともに暮らしていました。

正田は原爆の悲惨をうたった歌集の出版を思い立ちますが、当時の広島で、このような歌集を合法的に発行するのは不可能で、親族も、もし占領軍に見つかったら死刑になると、強く反対しました。彼女は死刑になってもよいとの気持ちで印刷所を探し、知人の紹介で広島刑務所に印刷を頼みこみました。

原稿を読んだ担当者はびっくりしますが、「もし、マッカーサー司令部に知れたら、きっと殺されますよ。絶対に秘密にして下さい。どんなことがあっても一般の人に頒布してはいけません。誰にも分からないようにして、被爆者だけにそっとさし上げてください。そういう条件でなら、150部だけ印刷してあげます」といって、印刷を引き受けたといいます。

被爆した広島が言わせる言葉がある

 今年の「被爆62周年原水禁大会」基調報告の最初にいくつかの歌を紹介していますので読んでください。

正田は「さんげ」を「無我夢中で、ひそかに泣いている人に、ひとりひとり差し上げさせていただきました」と語っています。

正田篠枝は60年に栗原貞子、森滝しげ子、原田和子らと「原水爆禁止母の会」を設立し、機関誌「ひろしまの河」を発刊しますが、65年6月15日に原爆症による乳ガンで死去しました。54歳でした。

「被爆した広島を言う言葉がある。被爆した広島が言わせる言葉がある」これは広島で生まれ、ヒバクした小説家で評論家の竹西寛子が、原民喜の「夏の花」(晶文社発行)の解説の始めに書いた言葉です。

これまで多くの人々が広島について書いています。栗原貞子や峠三吉の詩、原民喜の「夏の花」や太田洋子の「屍の街」、井伏鱒二の「黒い雨」など、すぐれた作品が多くあり、読んでほしい作品です。また長崎の被爆詩人・福田須磨子の詩もぜひ読んでほしいと思います。