出版物原水禁ニュース
2008.3  

原水禁の基礎を築いた2人
池山重朗さん、関口和さんを偲ぶ

核戦争3分前

池山さんの著作「核戦争3分前」

イデオロギーや体制対立を超えた原水禁運動

 1965年の原水禁発足時より77年まで事務局次長だった池山重朗さんが昨年12月8日に亡くなられました(享年76歳)。さらに今年1月22日に、75年頃より90年代初めまで総務部長・事務局長を務めた関口和さんが亡くなられました(享年79歳)。

54年3月1日の米国による太平洋・ビキニ環礁での水爆実験でつくり出された大量の放射性物質は、太平洋と、第五福竜丸など多くの日本漁船を汚染させました。太平洋から持ち帰った魚の大半は、連日、廃棄処分されました。人々は日常生活のなかで放射能の恐ろしさを知ったのです。自然発生的に原水爆実験反対の署名運動が始まり、日本中に広がりました。その運動は思想・政党・宗派を越えた運動として広がったのです。それは日本における最初の市民運動といえます。第五福竜丸乗組員・久保山愛吉さんが亡くなられ、さらに運動は広がりました。

第1回原水爆禁止世界大会が広島で開催され、参加者の多くが広島・長崎のヒバクシャの実態を初めて知り、放射能の被害の深刻さを改めて認識しました。日本の原水禁運動は世界にも大きな影響を与えていきます。池山さんは原水爆実験反対運動に積極的に参加し、第1回原水爆禁止世界大会の後に結成された原水爆禁止日本協議会(日本原水協=1955年9月発足)の事務局員になります。

ソ連の核実験再開と日本共産党の露骨な介入

原水爆実験反対の声が世界的に高まるなかで、58年10月末から米・英・ソ3国は、核実験の一時停止に踏み切ります。しかし米・ソは一時停止の期間中も、新しい核兵器の開発を進め、61年の第7回原水禁世界大会後の9月1日、ソ連は核実験を再開しました。

9月1日、2日と開かれた日本原水協担当常任理事会は、激論の後、「われわれは原爆被災の惨禍を体験し、また水爆実験のおそるべき災害をこうむった唯一の国民として……ソ連の実験再開に強く反対する」などの内容の声明を発表しました。しかし9月1日に日本共産党の「アカハタ」が「ソ連政府声明の趣旨を正しく理解しなければならない」書いたことから、日本原水協発表の声明は反故にされていきます。これ以降「いかなる国の核実験にも反対する」か、否かをめぐって、全国的に激論と混乱が広がっていきました。日本共産党はその力の限りをつくして、市民運動に政治的立場を持ち込んだのです。

ソ連核実験の後、米国も核実験を再開し、61年、62年と米ソは大規模な核実験を実施し、大量の放射性物質が世界に降り注ぎますが、日本の運動は十分な抗議行動がとれない状況に陥りました。池山さんは原水協に失望し、65年2月に発足する原水禁に参加しました。

池山さんのもっとも大きな功績は、原発反対の運動を、原水禁の中心課題の一つにしていったことです。当時は情報も資料も少ないなかで、武谷三男さんなど日本各地の原子力科学者と連絡しながら、原子力資料情報室の設立に協力するなど、原水禁運動として反原発運動へ取り組むことの重要性を確立していきました。

原水禁の反原発への取り組みは、各地の住民運動に大きな力となりました。またミクロネシアへも池山さん主導で調査団を派遣したことによって、日本で初めてビキニ核実験ヒバクの実態が明らかにされました。

統一大会と独自大会の開催を実現

故・関口和さん

故・関口和さん

一方、関口さんは国鉄労働組合(国労)の役員として、55年から69年まで闘われた砂川闘争に、三多摩労協事務局長として関わり、その後国労本部、原水禁専従役員を経て、80年代初めに事務局長に就任しました。

一方この頃より、原水禁運動を統一しようとする動きが出始めていましたが、その動きは77年5月19日の原水禁・森滝市郎代表委員と原水協・草野信夫理事長による「原水禁運動の統一のための合意書」によって現実のものとなりました。これらの経過は、「開かれたパンドラの箱と核廃絶へのたたかい」(七つ森書館)を参照してください。

しかし、この合意書は、原水禁が取り組んできた原発問題を外すという意図が透けて見えました。結局、原水禁は統一大会と独自の原水禁大会を、統一大会が終了する85年まで開催していきます。総評との間に立ち、関口さんは苦労しながら、二つの大会の開催に力をそそぎました。こうして途切れることなく、原水禁は原発問題に取り組んできました。

池山さん、関口さんのお二人の意思を引き継ぐことによって、お二人は原水禁で生き続けるでしょう。