出版物原水禁ニュース
2008.7  

被爆体験が核兵器廃絶、平和運動への宿命
原水爆禁止日本国民会議 副議長 川野浩一さんに聞く

【プロフィール】
1940年北朝鮮平北道に生まれる。1945年、長崎で爆心地から3.4キロの地点で被爆。61年長崎県庁に入職し、その後、長崎県職書記長・委員長、長崎県労評センター議長・長崎県原水禁会長、自治労長崎県本部委員長、連合長崎会長などを歴任。2003年から長崎平和運動センター被爆者連絡協議会議長、07年から原水禁国民会議副議長に就任。

──川野さんの被爆体験からお話し下さい。

 私は、いまの朝鮮民主主義人民共和国で生まれましたが、その時の記憶はありません。そこから日本の祖父母の家である長崎に引き揚げてきました。戦時中は、食べ物がなく、毎日腹を空かしていました。遊び道具もない時代で、夏のころはパンツ一丁で網を持ってトンボや蝶を捕ったり、家の周りを走り回っていました。
 8月9日は、長崎市内本紙屋町(現在の麹屋町)の自宅前の路上、爆心地から3.1kmのところで被爆しました。そのとき、飛行機の音が「ブーン」と聞こえ、近くにいた子どもが走りだし、その子の家の玄関の戸に手をかけたところまで覚えていますが、その後の記憶はありません。どれくらいたったかわかりませんが、15〜20メートルぐらい吹き飛ばされ、家と反対方向の道に倒れていました。友達が私を起こしてくれ、立ち上がって見るとあたりはシーンとしていて誰もいません。家の方を見渡すと、夕暮れ時みたいに薄暗かったことを覚えています。また頭上で「ブーン」という飛行機の音が聞こえたので、近所の防空壕へ逃げ込みました。その中では大人たちが「これは新型爆弾に違いない」と言っていました。
 間もなく、母親が探しに来てくれ、自宅前の防空壕に避難しました。防空壕へ避難しているときに、前の道を大火傷をして髪が燃え、焼け焦げて両手を前に歩いている人たちを大勢見て、言葉は悪いですが「幽霊」のようでした。大人たちは、「子どもには見せてはいかん」ということで、私たちを「絶対に防空壕から出すな」と言われていました。それから間もなく、火災が近づいて来たため、山手の防空壕に移り、そこで8月15日まで過ごしました。
 もし、原爆が当初の投下目標地点である長崎中心地に投下されていたら、私の家は至近距離で、確実に命はなかったと思います。そう考えると、私はいくつかの偶然が重なり、生きていることになります。そのことに感謝し、私は平和運動、核兵器の廃絶に取り組まなければならない宿命を背負っていると感じています。

──健康への影響はどうでしたか。

 原爆を受けたその晩に血便をしました。放射能の影響か、身体を打ったからかはわかりません。しかしその後は、戦後の栄養不足も重なったのか、皮膚病や内臓が弱くなりました。放射能との関係があったのかわかりませんが、自分の両親や祖父母などがガンなどの原爆症で亡くなっているので、自分もそんなハンディを背負っているようで不安に思っています。いつか原爆症というもので死ぬのかな、と思ったりもします。

──そのような原爆体験が運動の原点となったと思いますが、それ以外にも原点となったことはありますか。

 私は長崎県庁に1961年から勤めました。19〜20歳の頃が60年安保闘争の時期になりますが、このような社会的動きにも大きな影響を受けました。そして、自らの被爆体験に加え、地方公務員労働者の低賃金や労働条件の改善に意欲を持ったことも、運動を始める原点になりました。県職員労組や自治労県本部、長崎県平和センター、県の連合の役員をつとめました。

──07年から原水禁国民会議の副議長に就任されましたが、核廃絶、ヒバクシャ援護、脱原発の原水禁運動の3つのテーマに対してどのように思っていますか。

 核廃絶の課題では、粘り強く取り組む以外にないと思います。北東アジアの非核地帯構想など、原水禁が打ち出している政策を積極的にすすめることが重要です。また、ヒバクシャの課題では、高齢化が進み、被爆者には後がない現実があります。いま取り組みを急ぐべきです。特に、北朝鮮在住の被爆者問題は、日本との関係悪化で難しい面もありますが、被爆者の救済を糸口に何とかできないでしょうか。国民に訴える内容としては、もっとも取り組みやすい糸口だと思います。とにかく相手国を説得する以外ないと思います。脱原発については、原発に頼らない自然エネルギーの開発などの取り組みを進めるべきだと思います。

──連合との関係はどのように見ていますか。

 連合などとの共闘は、これまでは一過性のセレモニーのイベントで終わっているように見えます。そこからどう掘り下げていくことができるかが、今後重要だと思います。組合の動員だけで、運動の拡がりがないのでは、運動的にも定着せず、何も残らないのではないでしょうか。一部の活動家だけではなく、例えば長崎に来る前に、自分たちの地域で何かやって欲しいですね。そのためにも、もっと初歩的な足元の議論が必要だと思います。

──地元長崎の運動はどう見られますか。

 戦後、長崎では三菱長崎造船の労働者や炭鉱労働者が運動の中心でしたが、三菱は同盟系に、また、炭坑は廃山となり運動は低迷しました。しかし、その中でも、1968年の米空母エンタープライズ寄港阻止闘争や、78年の原子力船むつ闘争など、佐世保を拠点とした運動が長崎県労評、その後の平和センターを中心に粘り強く取り組まれてきました。その原点は被爆地であるということであったろうと思います。
 一方で最近、市や県を巻き込んだ地球市民会議の運動や民間(市民)団体主導の運動として「高校生平和大使」、「高校生による1万人署名運動」に見られる長崎の若い世代の台頭には非常に希望を持っています。また、長崎の被爆者5団体が被爆者運動を共同歩調で取り組み、国や県、市への働きかけを強めていることは、とてもいい傾向だと思います。

──昨年の長崎出身の久間防衛大臣(当時)の「原爆投下はしかたがない」発言をどう思いますか。

 久間発言では、被爆地長崎であるが故に反発は相当強く、昨年の参議院選挙・長崎選挙区ではサッカーで有名な国見高校の小嶺監督が圧勝すると見られていましたが、民主党の候補者が勝利しました。被爆者団体の久間さんに対する反撃に、自民党や久間支持者は対応できませんでした。毎年8月9日の祈念式典に彼は出席していましたが、「久間さん、あなたは最前列に座り、長崎市長の平和の訴え、被爆者の悲惨な被爆体験を聞きながら、『そんなこと言ってもしょうがない』と呟いていたのですか」などの公開質問状に、市民は拍手を送っていました。彼の発言は、被爆者としては絶対に許せない言葉です。

──最後に、今後の原水禁運動や若者に対して訴えたいことは何ですか。

 今の若い人は、平和が当たり前と思っているのではないでしょうか。平和は創るものであることをもっと自覚してほしいと思います。私も微力ながら地元で「9条を守る会」を作り、署名活動などに取り組んでいます。多大な犠牲の上に平和憲法がつくられ、その平和憲法のお陰で今日の日本があります。平和こそがすべてです。そのことを忘れないでほしいものです。
 また、私は戦中、戦後を経験しましたが、いまアフリカや東南アジアの貧しい子ども達の映像を時折目にするときがあります。あれは敗戦直後の日本の状況と同じだと思います。そのことを若い人に知って貰いたい。歴史をきちんと学び、近隣諸国とも友好を重ねることも重要だと思います。
 原水禁は、長年の運動の蓄積や実績に対する自信と責任感を持って、核兵器廃絶と戦争のない世界の実現をめざし平和運動を広げてほしいです。私もその一員としてがんばるつもりです。

〈インタビュ─を終えて〉
 川野さんは、朝鮮から引き揚げてきて、長崎で被爆した。それだけに、平和と核軍縮への決意は強く、被爆者であるという不安を抱えて活躍してきた。また今年も8月9日が迫ってくる。長崎は、三菱重工や米軍の基地があり、原子力空母も入港する佐世保もある。「平和は創り出すもの」と強調する川野さんの任務は引き続き重い。

(福山真劫)