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2008.8  

被害者の顔が見える戦争責任と戦後補償を
早稲田大学大学院客員教授・恵泉女学園大学名誉教授 内海 愛子さんに聞く

【プロフィール】

1941年東京生まれ。学生時代に日本朝鮮研究所所員。インドネシア国立パジャジャラン大などの講師を経て、恵泉女学園大教授を歴任。在日韓国・朝鮮人の人権・戦後補償運動を担う。専門は、日本アジア関係史、戦後補償論。日本平和学会前会長。アジア人権基金理事。戦時捕虜リサーチネットワーク共同代表など。

──内海さんの戦争体験はどういうものでしたか。

 空襲で空が真っ赤になっていたことをおぼろげに覚えている程度です。戦後の占領軍の印象が強く、巨大に見えた米兵への恐怖感があって、その後もアメリカ嫌いでした。最近、第五福竜丸展示館で、中学1年のとき私が久保山愛吉さんに出した手紙が出てきました。「原爆への補償もしないのにアメリカはビキニの水爆実験をした」と批判していました。自分の体験から考えても、感謝される占領はありません。それを考えれば植民地支配への朝鮮人の感情も少しわかってきます。

──学生時代の思い出や印象に残ることは。

 女性差別に抗しないと、大学進学も自分の道も開けない年代です。中学・高校は、良妻賢母をつくる女子校でしたが、文部省の教科書を使わない先生や砂川闘争を闘ってきた若い先生もいました。その影響で久保山さんに手紙を書いたのだと思います。私も教師になりたいと、先生を目標に勉強や活動をしました。

 早稲田大学入学が60年で、高校からいきなりロックアウトで何がなんだかわからなくて安保闘争を見ていました。構内に入れないまま、演説はよく聞いていて、夏の全学連大会に一人で行ったりしました。秋になって自治会や歴史研究会に入会し、反戦運動に参加しました。3年ぐらいまでそんな活動をしていましたが、行き詰りました。自分に心からの怒りがないのに、スローガンを叫んでいることに気づいて、自己嫌悪に陥り、方向を見失ったまま就職しました。

 悩んでいる時に「ドキュメント朝鮮人」(日本現代史の暗い影、藤島宇内監修、日本読書新聞編65年)を読んでショックをうけました。強制連行や関東大震災の朝鮮人虐殺も知らない、私たちの習った歴史は何だったか、女性差別に敏感な自分が、なぜ在日朝鮮人の差別は見えなかったか。そんなことを思い、もう一度勉強し直そうと早稲田の社会学に学士編入しました。

──「ドキュメント朝鮮人」で視野が広がったのですか。

 歴史学研究会で、朝鮮植民地支配のことは勉強したはずでした。知識はあったにもかかわらず、被害者の痛みも顔も見えなかった。そのドキュメンタリーで、多少とも心で考えられるようになりました。それで、在日女性の聞き書きのグループにも参加しました。在日の人たちからは「日本人は…」とよく批判されました。日本国のパスポートをもつ日本人として、朝鮮や在日の人たちに対する歴史的な責任がある、そう考えて、在日朝鮮人差別をテーマにしてきました。69年の出入国管理令の改悪反対運動では、在日への差別と同時に今問題になっている技能研修生の新設を問題にしました。在日に対する制度的な差別が強まる一方、日本企業の本格的な海外進出に対応する国境管理の変化がおこっている。その具体的なあらわれが研修生問題であり、入管法改悪だというのが私の位置づけでした。

──韓国・朝鮮人の元BC級戦犯との関わりはどこで。

 75年から2年間、インドネシアで教師をしたときに、「大東亜共栄圏」レベルで日本の戦争を考えるようになりました。バンドンには、朝鮮人が捕虜監視員として送られていました。その中にはBC級戦犯になった人も、インドネシアの独立英雄になった人もいます。

 戦後、インドネシア独立軍に入った日本兵が多数いることは知られていますが、私の滞在中にも「3人の日本兵」が独立英雄になりました。1人は朝鮮人で、元捕虜監視員でした。彼の調査をしているなかで、ほかにも10人近くの朝鮮人がインドネシア独立戦争で死んだことがわかりました。戦犯と独立英雄─対極のようですが、おなじ捕虜監視員でした。オランダが銃殺した一人は日本軍から逃亡して、独立戦争でつかまり銃殺され、その後、インドネシア共和国の独立英雄として顕彰されました。逃げそびれてオランダの戦争裁判を受けて死刑になった朝鮮人はBC級戦犯として韓国で指弾されてきました。英雄、戦犯を、一人一人の生き方の中で考えていきたいと思いました。

 BC級戦犯の問題はとくに日本の戦後処理とかかわっています。朝鮮人戦犯は、罪は日本人として受け、援護は外国人だから排除する。そのような処遇をうけてきました。巣鴨プリズンにいても、日本人の戦犯には盛んに慰問が来ますが、朝鮮人は日帝協力者だというので誰も来ない。日本の軍隊は植民地の青年を編入しています。アメリカもイギリスもフランスも植民地兵を編入していますが、戦後はしかるべき処遇をしています。戦争に動員しながらそれをしないのが日本です。ドキュメント「忘れられた皇軍」(大島渚監督、NTV63年)がそのテーマを扱っています。

 韓国朝鮮人のBC級戦犯は総数148人で、死刑23人、有期刑125人です。当事者はほとんど亡くなりましたが、オーストラリア裁判で死刑の判決をうけ、その後減刑になった李鶴来(イ・ハンネ)さん(同進会会長)を中心に、半世紀以上、日本政府に補償要求しています。自分たちを「ボロ雑巾」のように使い捨てた日本への怒りです。なぜ、朝鮮人が戦犯になったのか、彼らが問われた罪とは何か、日本に責任はないのか、かれらと国会議員へ説明したり、資料調査をしてきました。

東京都豊島区巣鴨(現在の東池袋)にあった巣鴨プリズン(拘置所)。多数の戦犯が拘置され、極東国際軍事裁判関係者の死刑が執行された。現在は池袋サンシャインシティとなっている。

──現在の中心テーマは何だと考えていますか。

 なぜ韓国や中国が靖国公式参拝に抗議するのか、それを説明できる戦後史の認識が必要と思います。ポツダム宣言の戦争犯罪の追及と賠償という2本柱は、ともに冷戦で不十分となり、私たちは加害責任を自覚化しないできました。法務総裁(現法務大臣)が戦犯を国内法上の犯罪人ではないとの見解を出すのは、サンフランシスコ講和条約発効3日後です。刑死した戦犯は、死刑ではなく公務死とされ、軍人恩給や援護法の年金の対象となり、靖国に合祀されます。

 戦犯のなかに、こうした動きや再軍備と引き替えの釈放はいらないと拒否した人たちがいます。私は「スガモプリズン─戦犯たちの平和運動 」(吉川弘文館04年)で書きましたが、戦犯が戦争犯罪を考え抜いている。その手記が「壁あつき部屋」(理論社53年)で、安部公房の脚本で映画「壁あつき部屋」(小林正樹監督、松竹配給56年)が制作され、A級戦犯などの戦争指導者を強く批判しました。やはり戦犯の手記を橋本忍が脚色したのが、岡本愛彦監督の「私は貝になりたい」(TBS58年)です。いずれも巣鴨で、自分たちがなぜ侵略戦争に加担したかを見直し、再軍備反対運動をしていた人たちの手記をもとにしています。

─戦後補償では当面、何が課題ですか。

 戦後補償問題は、90年代から「慰安婦」問題を通して大きなうねりになり、裁判も全部で80件を超えました。判決では負けても、西松訴訟のように企業責任を求めた付言をもとに、新たなとりくみがつづけられています。東京大空襲裁判のように、日本人の戦争被害者の主張も広がってきました。民間の被害者には補償ゼロなのに、なぜ軍人には補償があるのか。おかしい問題です。世界の34ヵ国を相手に戦争したので、全体像はなかなか見えませんでしたが、被害者が声をあげることで、視野が広がってきました。戦後補償の裁判や運動にかかわり当事者の証言を記録したり、関連資料を調べて証言を裏付ける作業をすることは大切です。

──若い人たちや平和フォーラムに提言を。

動きながら考えることです。日本でも、アジアでもアメリカ、オーストラリア、イギリスなどどこへいっても日本の戦争と関わります。現在の平和を戦争の歴史の文脈の中において考え、被害者の顔を通して平和を論じていけば、具体的に問題をとらえられるのではないでしょうか。アジアや日本の被害者の声を心で感じていくことが大事だと思います。

〈インタビューを終えて〉

たいへん元気に、日本のアジアへの侵略の歴史を語る。戦争責任と戦後補償をどうするのか。抽象的な議論ではない。具体的な事実、証人と向き合い、そこから出発することが重要と語る。私たちが向き合わなければならない現実と果たさなければならない責任は重い。  (福山真劫)