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フランス核実験とその被害者の権利回復運動

以下の文章は、真下俊樹「フランス核実験被害者の権利回復運動」(「長崎平和研究」, 長崎平和研究所発行, 第26号, 2008年10月)に加筆したものです。

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フランス核実験による被害者の存在は、これまであまり知られてこなかった。1980年代初めから核実験被害がアメリカやイギリス、そして旧ソ連の社会的問題になり、公的補償が行われる例も出ていたのに対して、フランスでの動きがにぶかった理由としては、フランス官僚機構による核実験被害の隠蔽と自国の核兵器を是とする徹底した国民教化が挙げられる。だが、1990年代半ば以降、フランスでも核実験被害者の掘り起こしが始まり、2000年代入って被害者の権利回復運動が大きな動きを見せている。以下では、その経緯と現状を、フランスの核開発と絡めて概観してみたい。

1.ド・ゴール主義と核の独自開発

フランスは、1960年から1996年までの37年間に、アルジェリア領サハラ砂漠とフランス領ポリネシアで計210回の核実験を行った(表1)。ひとつの特徴は、フランス核実験の数がその核軍備の規模の割に多いことである。その背景には、フランスの戦後外交を貫くド・ゴール主義がある。

表1:フランスが行った核実験

第二次対戦後の米ソ冷戦構造の狭間で、西欧諸国が米国主導の北大西洋条約機構(NATO)に統合されるなか、1958年に第五共和制を確立したド・ゴール仏大統領は、NATOからのフランス軍引き揚げ、米核ミサイルのフランス配備拒否、イギリスのヨーロッパ経済共同体(EEC)加盟反対、アメリカのベトナム介入反対など、それまでの対米追従外交を転換した。その背景には、「核兵器の使用が米ソ両国の破局をもたらす以上、ヨーロッパの防衛にアメリカが核を用いることはあり得ない。したがって、アメリカの核の傘でヨーロッパの防衛を確保するのは不可能」との認識があった。他方、ソ連への接近、中国承認など、社会主義圏との共存路線をとった。

ソ連による侵略を脅威としながらも、アメリカからも距離を置くこのド・ゴール主義外交は、冷戦構造の隙間で、途上国への兵器輸出を仲立ちとした資源外交、インド、中国、パキスタン、南アフリカ、イランなどへの原子炉など機微な技術供与を切り札とする独自外交など、戦後フランスの国益追求の柱を成した。この基本路線は、保守・左翼を問わず、歴代政権によって今日も連綿と引き継がれている。

ド・ゴール主義遂行のために、自前の核兵器を持つことは不可欠の軍事的裏付けとされた。フランスは、1954年に「原子力軍事利用高等委員会」を設置。1958年、第五共和制を樹立し、大統領に就任したド・ゴールは、「独自の核防衛をもたない国の運命は、消滅するか、核大国の奴隷になるかのいずれかしかない」と演説して、核兵器の独自開発を内外に発表した。

だが、すでに大陸間弾道ミサイル(ICBM)の開発競争に入っていた米ソ、そしてアメリカと一丸となって核開発を行っていたイギリスに対して、フランスの出足が遅れていたのは明らかだった。大国の軍拡競争に追いつき、有効な核抑止力を獲得するためには、ともかくも開発を急ぐ必要があった。フランスは、当時アメリカの核機密情報に通じていたイスラエルと協力することで、情報面での遅れを取り戻そうとしたと言われる。焦りは、とくに初期の核実験の拙速さにも表れることになった。

2. サハラ砂漠での核実験

フランスは、1960年から1996年までの37年間に計210回の核実験を行った。初の核爆発は、1960年2月13日に、アルジェリア領サハラ砂漠のレッガヌ(周辺も含めた当時の推定定住人口約4万人)の南約50キロメートルに建設された「サハラ軍事実験センター(CSEM)」で行なわれた。ド・ゴール大統領は、実験の成功を世界に宣言したが、原子力庁(CEA)で当初から計画を推進し、「フランス核兵器の父」とも呼ばれる物理学者のイヴ・ロカールは、「1960年2月13日の爆弾の爆発の瞬間のために用意していたはずの措置は、不器用で経験のない若い技術者に託された準備作業の不手際のためにすべて失敗した。[…]爆発の瞬間に地上で取られた措置は、全体としてかなりひどいものだった」[1]と述べている。

CSEMでは4回、総威力約85キロトン(広島型原爆約5.7発分)の大気圏核実験が行われたが、短期間にできるだけ多くのデータを集めるために、核爆発が地上近く(50〜100メートルの鉄塔上)で行なわれた。低高度での核爆発は、放射能を含んだ大量の土砂を巻き上げるため、放射能汚染が多いことは当時もよく知られていた。核分裂の制御技術が未熟であったために、未分裂のまま残った多量のプルトニウムも飛散したと見られている。そうした中で、実験直後に、爆心地や原子雲の中での放射能測定、原子雲に向けた歩兵の進軍訓練などが行われた。

図1. アルジェリア領サハラ砂漠のフランス核実験場

雨がほとんど降らない砂漠では、放射能雲は風に乗ってサハラ周縁国、さらには地中海を越えてフランス本国まで拡がったという。放射能の被害を恐れるアフリカ周辺国や国際世論の反発が高まった。この時期はアルジェリア独立戦争と重なり、1962年3月には「エヴィアン協定」でアルジェリアの独立が決まった。この協定の未公表の条項で、サハラ砂漠でのフランス核実験の継続が合意されたと見られている。だがこの時、放射能の被害を憂慮したアルジェリア新政府は、サハラ砂漠での五年間の核実験継続を許可する代わりに、地下核実験に切り替えることを強く要求し、フランスはこれを飲まざるを得なかったと言われている。フランスはCSEMの大規模な地下核弾頭製造施設や、数千人にのぼる要員の駐屯施設をわずか1年あまりで放棄し、1961年11月にサハラ南東部イネケールの北約40km(タマンラセット市の北約150km)に新たに「オアシス軍事実験センター(CEMO)」を建設し、地下核実験に移行した。

CEMOでは、標高約1000mのホッガール高原にそびえる花崗岩山魂タン・アフェラ山で、山腹に800〜1200メートルの横坑を掘り、傘の柄状に湾曲させた奥部で爆発させ、爆圧と熱で崩壊・溶融し、ガラス化した岩盤で放射能を封入する方式(アメリカから学んだと言われる)が採られた[2]。

しかし、フランス政府の発表によると、1966年2月までにイネケールで行われた計13回の核爆発のうち、放射能が坑道を突き抜けて地表に吹き出す事故が四回起きている[3]。とくに、1962年5月1日に行なわれた2度目の地下核実験では、威力が計画の2.5〜4倍になり、坑道から大量の噴煙と熱で溶けた溶岩が噴出して、実験に立ち合っていたP. メスメール国防相とG. パレフスキー科学研究・核担当相をはじめ約2000人の関係者が被曝した。うち9人は約600mSv(ミリ・シーベルト)の曝露を受け、本国の軍病院に収容された[4]。パレフスキー大臣は後に白血病で死亡している。5mSvの被曝圏は、風下の東方約150kmまで及んだとされている[5]。

砂漠といえども、時期によっては洪水で死者が出るほどの大雨が降る。たび重なる核爆発で脆くなった岩盤に雨水が染み込んだ場合、封じ込められたはずの放射能が地下水系に流出し、飲料水や農業用水を汚染する可能性も指摘されている[6]。

3.仏領ポリネシアでの核実験

アルジェリア戦争敗北がはっきりした1961年から、フランスは代替の核実験場を探し、62年には仏領ポリネシアに決定。使用期限の1966年にイネケールを閉鎖し、モルロア、ファンガタウファ両環礁に新設した太平洋実験センター(CEP)に移転した。移転により地下核実験の縛りを解かれたフランスは、ただちに大気圏核実験を再開。1966〜74年にその数は計46回にのぼった。総威力は、フランス政府発表で約7.6〜10.8メガトン、広島型原爆510〜720発分にのぼると推定されている。とくに1966年には、バージと呼ばれる艀船上に乗せた核弾頭を爆発させる方式が採られた。この方式では、放射化した大量の砂や海水が高空まで吹き上げられて撒き散らされるため、フランス政府も放射能汚染がとくに強かったことを認めている。その後、核弾頭をヘリウム風船で吊り上げて爆発させる方法が採られるようになり、フランス政府は「極めてクリーンな技術」と自賛したが、実際にはその大半が高度200メートル台での爆発だった。核爆発の火の玉は20キロトン級でも半径約250メートルに達するため、やはり大量の土砂や海水を巻き込むものだった。

仏領ポリネシアのフランス核実験場
図2:仏領ポリネシアのフランス核実験場

放射能汚染に対する国際社会の厳しい批判に押され、フランス政府は1970年代初めから地下核実験場の探索をはじめ、72年には地下核実験への移行を決めていた。1974年9月の大気圏核実験を最後に、フランスは同じモルロア、ファンガタウファ両環礁、およびその礁湖(ラグーン)に縦坑を掘って行う地下核実験に移行した。

両環礁の地盤は、海底火山の隆起の上に珊瑚礁が厚く堆積して出来た石灰質で、非常に脆いため、当初から大量の放射能を長期間封入するには不適と見られていた[7]。アメリカが地下核実験に移行したさいにも、ビキニ、ジョンソンなどの環礁で多数の試掘調査を行った結果、環礁地下での核実験は不可能と判断し、最終的にネバダを選択したと言われている。にもかかわらず、フランス政府が既存の大気圏核実験場を地下核実験場として継続使用した理由を、フランス軍のある将軍は「他の場所で兵站施設をまた建設するのは非常にコストがかかる」ためだったとしている[8]。

モルロア、ファンガタウファ両環礁で行われた地下核実験は、1975〜96年に計147回にのぼったが、当初から直径数百メートルの地盤沈下や、数kmにわたる亀裂が多数生じた。1979年7月には、モルロア環礁で海中の環礁斜面が長さ数km、数百万立方mにわたって崩落し、それによって生じた津波で実験要員7人が重軽傷を負う事故が起きている。小規模な崩落や地震は、各実験時だけでなく、実験から数週間後に起きたものもあり、地盤の不安定化がいかに進んでいるかを窺わせている。また、環礁の地下は海水が浸透しているため、放射能が水の移動とともに染み出しているのも観測されている。

モルロア環礁では、臨界量未満のプルトニウムを化学爆発に曝し、輸送時や貯蔵時の核兵器の安全性を確認する「安全性実験」が地上で少なくとも6回行われたが、この実験で多量のプルトニウムの粉が撒き散らされた。このため、アスファルト舗装で地表のプルトニウムを「固定」する工事が行われたが、関係者用の砂浜だけは「労働者の志気のために必要」としてそのまま残され、実験要員たちはプルトニウムの微粒子が飛散した砂浜で海水浴や日光浴を続けたという。さらに、1981年にモルロア環礁を襲った強力なサイクロンで、このアスファルト舗装が破損して剥がれ、プルトニウムを含んだアスファルトのかけらが礁湖や砂浜に積もる事故も起きている。軍当局は大規模な清掃作業を行ったが、作業に当たったあるポリネシア人労働者は「本国の関係者は防護服を着ていたけれども、われわれには支給されなかった。渡されたのは手袋だけだった」と語っている。

4.健康・環境への影響を否定するフランス政府

フランス政府は従来、核実験に関する情報を「国防機密」としてほとんど公表せず、個人の被曝記録も本人や家族にさえ開示してこなかった。しかし、ポリネシア政府をはじめ、外国政府やNGOによる批判や独自調査の公表に突き動かされる形で、1996年の核実験終結宣言以後、フランスの行政機関による調査や国際原子力機関(IAEA)への依託調査の形で、健康・環境への影響に関する公式報告をいくつか公表している(IAEAの調査では、いずれもフランスの専門家が中心的な役割を果たしている)。

主なものとしては、アルジェリアでの核実験については、05年にIAEAによる調査の中間報告[9]と07年にフランス国防相による資料が公表されている[10]。仏領ポリネシアについては、1998年にIAEAによる報告[11]と、1999年にフランス国立衛生医学研究所(INSERM)による疫学調査報告[12]、06年にフランス国防相によるモルロア、ファンガタウファ両環礁での核実験放射能に関する報告書[13]が公表されている。このほか、フランス国会科学技術選択評価委員会(OPECST)が、01年にフランス核実験の影響を他国の核実験と比較する報告[14]を行っている。

いずれの報告にも共通しているのは、ごく少数の多量被曝や高濃度汚染地点はあるものの、全体として環境や健康への影響は皆無とする基調である。たとえば、アルジェリアでの核実験についてのIAEA報告は「全体として保守的なシナリオと被曝経路を用いた場合でも、年間被曝が、国際的なガイドラインが公衆に対して認めている被曝線量を超えたと考えられる例は、[一部の地下核実験を除いて]どのサイトでもない」としている。また、仏領ポリネシアについても、IAEAは「医学的に診断可能な健康への影響は現在もなく、また将来もあり得ない。放射線防護を理由とするいかなる矯正措置も必要ない」とした。INSERMの疫学調査は「ムルロア、ファンガタウファ両環礁から半径500km以内に位置する諸島では、ガンへの影響の有意な上昇はまったく見られない」と結論づけている[15]。また、OPECST報告は「これらの[環境や健康のリスクへの]影響は限定されたものであり、[]1945年以降に二大核大国が行った核実験の影響に比べれば、取るに足りないものである」と結論づけている。

1995〜96年にファンガタウファでの六回の地下核実験を最後に、フランスは核実験の終結を宣言し、南太平洋の非核化を定めたラロトンガ条約と包括的核実験禁止条約(CTBT)に調印した。以後、他の核大国同様、ポスト冷戦の地政学的変化に対応すべく、核弾頭の小型化、コンピュータ・シミュレーションによる信頼性確保、機動力を柱とした核抑止力の近代化を図ってきた。今後、核兵器用核物質は既存のものの使い回しで足りるとして、1992年以降、核兵器用核物質の生産施設も順次廃止している。08年6月、14年ぶりに発表された「国家防衛安全保障白書」では、「核抑止力は、依然としてフランスの安全保障の土台」としながらも、「フランスは、すでに地対地ミサイルを廃止し、核搭載潜水艦の数を自主的に3分の1削減した。『必要最小限』の原則に基づいて、08年以降、核兵器、ミサイル、核搭載航空機も、3分の1削減する。こうした削減により、フランスの核弾頭保有数は300個未満、冷戦時代の半分に減少する」[16]として、核軍縮への貢献と、新たな安全保障体系への移行を強調している。

5. 各地で声を挙げ始めたフランス核実験被害者

「放射能の影響は皆無」としてフランス核実験を「歴史」のなかに封じ込めようとするフランス政府の議論は、ガンなど様ざまな障害に苦しみ、放射能被害への強い不安を抱きつづけてきたフランス核実験被害者たちの現実とは掛け離れている。

フランス核実験被害者には、大きく分けて3つのグループがある。まず、核実験に動員されて被曝した軍人、原子力庁(CEA)や関連民間企業の科学者・技術者などフランス本国人のグループ。そして、核実験場となったアルジェリアおよび仏領ポリネシアの現地住民の各グループである。現地住民のなかには、核実験関連施設に現地調達労働力として雇われ、汚染区域での土木建設工事や、汚染した衣服の洗濯など、様ざまな作業中に被曝した労働者と、核実験の降下物や漏出放射能によって被曝した一般住民が含まれる。アルジェリアでは、この他に、汚染区域を通過したと思われる砂漠の遊牧民や交易商人、フランス軍撤退後に核実験場の管理を引き継ぎ、遺棄された大量のケーブル類や車両など汚染した核実験用機材に接触したアルジェリア軍関係者、そしてフランス軍が汚染区域の周囲に設置した鉄条網をかいくぐって侵入し、これらの汚染機材を回収・転売したブローカーや、その流通過程や使用段階で接触した人も被曝したと見られている。

こうしたフランス核実験被害者の多くがみずからの放射能被害を深刻に自覚するようになったきっかけとなったのは、1986年のチェルノブイリ原発事故と言われる。いずれの地域でも、過去に被曝した自覚があり、それに起因すると思われる障害やその不安を抱える元核実験要員や元労働者、核実験場周辺住民の間から真実を求める声が1987年頃からあがり始めている。だが、こうした被害者が仲間を見出し、団結するまでには、さらに10年以上が必要だった。とくに、フランス本国の被害者の多くは、みずからの被曝体験を公の場で語ることが「国防機密」に触れるのではないかとの懸念から、沈黙を破るのに躊躇したという[17]。

仏領ポリネシアの被害者については、仏領ポリネシアの独立と持続的発展をめざすNGO連合「ヒチ・タウ」が、現地の福音派教会を通してヨーロッパの同派教会の支援を受け、元核実験場労働者やその遺族、住民を対象とした社会学調査を二人のオランダ人研究者に委託した。1997年に発表されたその報告書[18]では、ガンなど様ざまな障害に苦しみ、放射能被害への強い不安を抱きつづけてきたポリネシア住民の声が初めて明るみに出された。

最初に被害者団体が結成されたのはアルジェリアだった。1997年2月13日、フランス初の核実験の37年目の記念日に、レッガンヌ(爆心地から50キロメートル)の住民が「1960年2月13日協会」を設立。核実験後に住民や家畜の死産が増えた、それまで見たこともなかった病気で死ぬ人が多数出たなど人体への影響や、畑で作物が実らなくなった、家畜が多数死んだなど放射能汚染の体験を証言するとともに、住民の健康と環境の詳しい調査、フランス政府による損害賠償を訴えた。フランスに対して植民地時代やアルジェリア独立戦争で受けた損害の賠償を要求してきたアルジェリア政府は、「国民運動・1954年11月1日革命研究所」内に「サハラ砂漠フランス核実験影響調査班」を設置。レッガンヌ、イネケール両核実験場の周辺各地で地域住民を集めた集会を開いて証言を収集し、01年にその結果を「アルジェリアにおけるフランス核実験——調査、研究、証言」と題する報告書[19]にまとめた。

1999年2月には、緑の党と社会党推薦エコロジストの国民議会議員が、国民議会の施設を借りて「ポリネシアにおけるフランス核実験、真実の要求と将来への提言」と題したシンポジウムを開催し、軍保管の医学関連資料の開示と独立の調査を求める決議を採択した。

01年6月には、約7万7千人にのぼるとされる核実験要員のなかの有志数十人が集まり、フランス本国初の被害者団体「フランス核実験退役軍人協会(AVEN)」を結成した。リヨンで行なわれた結成集会で、イネケールでの核実験に軍医として従事したJ.-L. ヴァラックス会長(当時INSERM主任研究員)は、「われわれの多くは重大な健康被害を受けている。核実験の真実を明らかにし、フランス政府に責任を認めさせたい」と訴えた。

同じ01年、フランス本国の被害者とも緊密な関係を築いてきたポリネシアの被害者は、AVENに続いて、ポリネシアで最初のフランス核実験の記念日である7月2日に、ポリネシアの被害者団体「モルロア・エ・タトゥ(モルロアと私たち)協会」を結成。被害者の掘り起こしを進めるとともに、AVENとの協力の下でフランス政府に健康や環境への被害の認知と補償を求めていくことを決めた。

6. 補償を求める裁判闘争と補償制度確立のための運動

フランスでは、軍務中の傷病に対する補償は軍人恩給の形で、その他の場合は職業病補償の形で行われる。03年10月の段階で、フランス仏軍保険局は、57件の軍人恩給申請があり、うち12件が認定されたが、「多くの申請は、証明がなかったために棄却された」としており、原子力庁(CEA)は、これまでに核実験に参加した同庁職員のなかで「約10件」の職業病認定があったとしている[20]。

だが、AVEN設立以後、同会の支援により、国に補償の不認定取り消しを求める訴訟(フランスでは集団訴訟が認められていないためすべて個人による提訴)が相次いだ。08年1月現在、係争中の訴訟は364件にのぼっており、毎月十数件のペースで新たな提訴が行われているという。被告である国側は、国務院(行政最高裁)への上告などあらゆる手段を使って裁判の引き延ばしを図っているが、08年8月現在までに24件の勝訴が確定している[21]。ほとんどの勝訴で、裁判所は、原告側の放射線被曝と疾病との因果関係の挙証責任を一部免除し、判決理由に被告の国側が充分な反証を提出できなかったことを挙げている[22]。

本国での裁判闘争の進展を受けて、ポリネシアでも08年5月に、補償を求める初の提訴が行われた。原告は、白血病を発病したモルロア核実験場の元労働者8名(うち生存被害者3名、被害者の遺族5名)で、職業病の認定を求めている。

こうした裁判闘争と平行して、AVENは、アメリカで1988年に制定された「放射線被曝退役軍人補償法(REVCA)」をモデルとして、こうした訴訟を経ずに補償を行う制度の確立を最終的な目標のひとつとしている。REVCAとは、放射線被曝の事実がある退役軍人が、特定のガンに罹患している場合、軍務との間に関連があることを推定的に認め(presumption of a link)、自動的に公的基金から補償を行うものである(その後改定による補償対象の拡大を経て「放射線被曝補償法(RECA)」として施行されている)。AVENは、そのための法案提出を各党議員に呼びかけ、超党派の議員連合を形成して法案の成立させることをめざしている。02年に緑の党議員が最初の法案を提出したのを皮切りに、共産党、社会党、さらに保守の国民運動連合(UMP)など六政党の議員が法案を提出しているが、成立までの道は未だ遠いと言わざるを得ない。

7. フランス核実験被害者グループ間の連帯

フランス本国のAVENとポリネシアのモルロア・エ・タトゥ協会の間の緊密な協力関係に比べて、アルジェリアの被害者グループとの交流は遅れていた。その溝を埋めたのは、02年8月5日に原水爆禁止国民会議の支援で行われた「フランス核実験被害者広島会議」だった。会議には、AVEN代表2名、モルロア・エ・タトゥ協会代表3名のほか、アルジェリアからの代表1名が出席し、フランス核実験被害者3グループの代表が広島で初めて一堂に会し、連帯の絆を結ぶことになった。会議のもようはフランスの「ル・モンド」紙でも報道された[23]。アルジェリアのM・ベンジェッバール代表は、フランス軍からレッガンヌ核実験場の管理を引き継いだ元アルジェリア工兵隊将校で、汚染機材に接触して被曝し、本人だけでなく子供も障害を持ったことから、被曝当時の部下や実験場周辺住民を訪ねて被害者の掘り起こす活動を続けてきた。ベンジェッバール氏は、広島で得た経験をもとに翌03年「アルジェリア・サハラ砂漠仏核実験被害者協会(AAVENFS)」を設立。退役軍人、元労働者、住民など被害者だけでなく、医師や弁護士、ジャーナリストも会員として参加し、組織的な被害者の権利回復運動を進めている。

こうした国際交流を受け、アルジェリア政府は07年2月、首都アルジェで「国際核実験被害会議」を開催した。アルジェリア政府は、05年にレッガンヌで、06年にイネケールで、それぞれ周辺住民や元労働者、国内の支援NGOなどを集めた集会を主催していた。07年の会議はその締めくくりとして、初めて門戸を国外に開放したもので、フランス、ポリネシアのほか、アメリカ、オーストラリア、日本から被害者代表や支援NGO代表が招かれ、のべ400人以上の国内参加者と交流した。会議後には、チャーター便によるイネケール核実験場視察旅行も挙行された。

8.外交問題化するフランス核実験問題

アルジェリア政府がこの問題に力を入れる背景には、フランスとアルジェリアの外交問題がある。両国間では、かつてのアルジェリア独立戦争の戦後処理が公式にも終わっておらず、日本と韓国・朝鮮、中国との間の戦後処理や歴史認識をめぐる溝よりもさらに深い傷跡が未だに残っている。しかし、1999年以降、独立戦争後初めて両国大統領が相互訪問を果たすなど公的な交流が進み、戦後補償の問題を話し合う下地が整いつつある。アルジェリア政府としては、フランス核実験被害の補償を、膠着した戦後補償問題の突破口としたい意向と見られる。その最初の進展の兆しとして、07年12月にアルジェリアを訪問したサルコジ仏大統領は、サハラ砂漠で核実験環境影響調査を行う用意がある旨を発表している[24]。

こうした国家間の駆け引きも踏まえた上で、フランスとポリネシアの被害者は、核実験被害補償交渉へのアルジェリア政府の参加を、運動を外交問題の次元に押し上げるものとして歓迎しており、今後は三者が共同してフランス政府との交渉を進めるとしている。

一方、ポリネシア自治政府でも変化が起きている。2004年6月のポリネシア議会総選挙の結果、反核・独立活動家として知られ、原水禁大会にも参加したことのあるオスカー・テマル氏がポリネシア大統領に選出され[25]、ガストン・フロス大統領(シラク派)の傀儡的保守政権による20年以上にわたる支配に終止符を打った。反核派が多数を占めたポリネシア議会は、核実験の影響に関する初の公的な独自調査を実施。それまでのフランス政府の主張に反し、タヒチ本島を含む各地で放射性降下物を検出していた事実が明るみに出された[26]。その結果を受けて、ポリネシア経済社会文化協議会(CESC)[27]もフランス政府に責任の認知と損害の修復を求める報告書[28]を公表した。

その後、07年に一部議員の寝返りによりテマル大統領の弾劾動議が議会で可決され、代わってサルコジ派のガストン・トンサン大統領が就任するなど、政局の混乱が続いた。サルコジ仏政権は、ポリネシア議会の選挙制度を改定することで、トンサン派による安定政権の樹立を図ったが、08年初めの総選挙後、旧来宿敵同士であったフロス派とテマル派との間で劇的な連立政権合意が成立。フロス大統領の下にテマル派が多数の閣僚を送り込み、少なくとも核実験問題では実質的にテマル派の政策が継続される体制が成立した(テマル元大統領はポリネシア議会議長に就任)。政権の不安定要素は依然残っているが、フランス核実験被害者の権利回復要求がポリネシア自治政府という公的機関によっても担われるようになったことの意義は大きい。アルジェリア政府とポリネシア自治政府の間で、遠からずフランス核実験問題をめぐって何らかの公的な話し合いが行われると思われる。

今世紀に入ってようやく表面化したフランス核実験被害者の権利回復運動だが、詰め将棋を思わせるような緻密さで、機密主義の壁に護られたフランス官僚機構をゆっくりと、しかし確実に追い詰めつつあると言えよう。その行く手は決して平坦ではないと思われるが、最終的な目的が達成されるまで、日本からもできる限りの支援を送るとともに、その動きを見守り、その経験から多くを学んで行きたいと考える。


[1] Yves Rocard, Mémoire sans concessions, Paris, Grassset, 1988 ; Bruno Barillot, Les essais nucléaires français 1960-1996, CDRPC, 1996に引用。

[2] IAEA, Radiological conditions at the former French nuclear test sites in Algeria: preliminary assessment and recommendations. Vienna, 2005.

[3] Délégation à l’Information et à la Communication de la Défense, Dossier de présentation des essais nucléaires et leur suivi au SaharaMinistère de la défense, janvier 2007.

[4] Commission de la Défense nationale et des Forces armées de l’Assemblée nationale, Les incidences environnementales et sanitaires des essais nucléaires effectués par la France entre 1960 et 1996 et éléments de comparaison avec les essais des autres puissances nucléaires, 23/01/2002.

[5] Délégation à l’Information et à la Communication de la Défense, 上掲書。

[6] Bruno Barillot (CDRPC) の発言(07年2月)。アルジェリアでの仏核実験については、拙稿「フランス核実験の責任追及に新たな動き」軍縮問題資料、01年11月を参照。

[7] このことはフランス政府自身、国連で公式に認めていた(Le Monde, 14 novembre 1973. 上掲Bruno Barillot (2002)に引用)。

[8] Lucien Soula, « Les expérimentations nucléaires françaises : présent et avenir », in Défense nationale, mai 1974. 上掲Bruno Barillot (2002)に引用。

[9] International Atomic Energy Agency, Radiological conditions at the former French nuclear testsites in Algeria preliminary assessment and recommendations — Vienna, 2005.

[10] Délégation à l’Information et à la Communication de la Defense (2007)、上掲書。

[11] IAEA, Situation radiologique sur les atolls de Mururoa et de Fangataufa, Rapport principal, Vienne, 1998.

[12] Institut National de la Santé et de la Recherche Médicale, L’incidence des cancers en Polynésie française entre 1985 et 1995, in Tropical Medicine and International Health, Vol. 5, n° 10, october 2000.

[13] Ministère de la défense, La dimension radiologique des essais nucléaires français en Polynésie – À l’épreuve des faits, Décembre 2006.

[14] Office parlementaire d’évaluation des choix scientifiques et technologique, Les incidences environnementales et sanitaires des essais nucléaires effectués par la France entre 1960 et 1996 et les éléments de comparaison avec les essais des autres puissances nucléaires, N° 3571 Assemblée nationale/N° 207 Sénat,février 2001. 対象はフランス核実験全体としているが、実際の内容は仏領ポリネシアでの核実験がほとんどで、アルジェリアに関しては皆無である。

[15] ただし、甲状腺ガンについては影響が「より大きい」とし、「大気圏核実験が行われた当時に幼児であった調査対象が加齢する間」調査を継続する必要を認めている。

[16] Défense et Sécurité nationale — Le Livre blanc, La Documentation française, juin 2008, Tome I, pp. 121-122.

[17] 各地のフランス核実験被害者運動の陰の立て役者であるブリュノ・バリオ氏の「フランス核実験被害者広島会議」(02年8月)での発言。

[18] Pieter de Vries and Han Seur, Moruroa and Us — Polynesians’ experiences during Thiruty Years of Nuclear Testing in the French Pacific, Centre de Documentation et de Recherche sur la Paix et les Conflits, Lyon, 1997.

[19] Centre national des études et recherches sur le mouvement national et de la Révolution du 1er Novembre 1954, Les essais nucléaires français en Algérie, études, recherches et témoignages, 2001 1er trimestre.

[20] « Les oubliés de l’atome », Le Monde, 24 janvier 2003.

[21] ブリュノ・バリオ氏からの私信(08年8月)。

[22] これらの判決は、イタイイタイ病裁判など、日本の公害裁判で裁判所が取った立場と共通する部分が多い。ちなみに、フランス核実験被害者訴訟のほとんどを手掛けている原告側弁護士は、フランスのアスベスト被害者訴訟で辣腕をふるい、被害者勝訴を導いたことで知られるJ.-P. テッソニエール弁護士が担当している。

[23] « Les esais nucléaires français en accusation à Hiroshima », Le Monde, le 16 août 2002.

[24] フランス側としては、原発導入を検討しているアルジェリアに欧州加圧水型炉(EPR)を売り込みたい意向であり(この時、仏留原子力協力協定が締結された)、その最大の障害である核実験問題を片付けておきたいとの思惑があると思われる。

[25] ポリネシア大統領は、議会議員の投票による間接選挙で選出される。

[26] CESCEN-Assemblée de la Polynésie française, Les Polynésiens et les essais nucléaires ; indépendance nationale et dépendance polynésienne, Vol. I/II, juillet 2005.

[27] テマル政権が新設した、民間各界の代表で構成される諮問機関で、大統領、政府、議会とならぶ主要機関のひとつと位置づけられている。

[28] Le conseil économique, social et culturel (CESC), Rapport sur la reconnaissance par l’État des droits des victimes des essais nucléaires français et leurs impacts sur l’environnement, l’économie, le social et la santé publique en Polynésie française, novembre 2006.

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