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フランス核実験被害者はどう闘ってきたか?

2009年の原水禁大会に、フランス核実験被害者運動の立役者のひとりであるブリュノ・バリオさん(フランス核兵器監視協会代表)がフランスから参加され、被害者運動のこれまでの経緯を、貴重な写真や資料とともに紹介しました。

フランス政府の「国防機密」の鉄壁に阻まれて、長い間苦しい闘いを強いられてきたフランス核実験被害者の運動。しかし、このサイトでもお伝えしてきたように、ここ数年、劇的な変化が生まれています。フランス国防省が、これまでの頑なな態度を一変させて、核実験による健康被害を認め、「核実験被害者補償法案」を提出したのです。また、ポリネシアでも元核実験労働者による初の補償請求訴訟が行われ、国側の責任を認める判決が出ています。

「官僚主義の権化のようなあのフランス国防省を、どうやってここまで追い詰められたのか?」という驚きと疑問は、フランス国内はもとより、国際的にも注目の的になっています。以下は、スライドも含めたバリオさんの講演内容です。

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私たちの運動はどうやってここまで来たのか?

ブリュノ・バリオ ( フランス核兵器監視協会代表)

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1. あまりよく知られていないかも知れませんが、フランス核実験に対する反対運動は、アフリカやポリネシア、太平洋、さらにはフランス国内にも常に存在しました。とくに1960年代初めには、サハラ砂漠での核実験に対するアフリカ諸国から、1970年代初めにはオーストラリアなど太平洋諸国から、政府レベルでの強い反対がありました。1995年にシラク大統領が行った核実験再開に対しては、フランスは世界中の批判の矢面に立たされました。(↑)

2. 政権期に112回、ミッテラン左翼政権期に98回の核実験を実施)。1960年代初めのアフリカ諸国からの反対は、植民地からの解放・独立達成後は収束していきました。(↑)

3. 1970年代初めの太平洋諸国からの反対は非常に強く、国際司法裁判所への提訴が行われ、フランスの大気圏核実験中止を早める結果を生みました(1974年)。(↑)

4. フランスでは、核実験開始当初の1960年から核実験に反対する社会党左派の議員が存在し、1973年にタヒチで行われた反対デモに参加する議員もいました。しかし、1981年にミッテラン左翼政権が誕生すると、社会党は核実験を容認しました。冷戦終結後の1992年なって初めて、左翼政権はロシア、アメリカ、イギリスと共同歩調を取って、核実験のモラトリアムを行いました。

一方、ポリネシアでは、フランスからの莫大な交付金と引き換えにフランス政府の言いなりになる傀儡的保守勢力が支配を確立し、核実験反対政党は地方政治から駆逐されてしまいました。(↑)

5/1. フランス国内での核実験反対運動は、当初から少数派で、一部の著名科学者や非暴力団体、平和団体などに限られていました。ニュージーランドやオーストラリア、フィジーの各政府が、核実験の停止を求めてフランスを国際司法裁判所に提訴したのを受けて、フランスでも1972~74年に反対運動が盛り上がりました。タヒチでの反核デモや、グリーンピースなど国際NGOの反核行動に、フランス本国から非暴力運動やキリスト教関係の活動家が参加しました。こうした国際的な運動に屈し、ジスカール・デスタン仏大統領は1974年に大気圏核実験の中止を宣言せざるを得ませんでした。(↑)

5/2. ポリネシアでは、反政府的な活動が封じ込められていたため、目立った核実験反対運動は不可能な状態でしたが、1977年に沈黙を破って初めて数千人規模の核実験反対デモが行われました。(↑)

6/1. そのデモに参加していたダニエルソン夫妻が1974年にフランス核実験の実態を暴いた初めての本『モルロア・モナムール』を出版しました。(↑)

6/2. ジョン・ドゥーム氏など地元のプロテスタント教会幹部も、プロテスタント教会の国際ネットワークを通して反核実験運動に参加し始めました。1977年には、オスカー・テマルとジャッキー・ドロレが反核独立政党タヴィニ・フイラアティラ党とラ・マナ・テ・ヌナア党をそれぞれ結成。その後、環境団体ラ・オラ・テ・ナトゥーラも結成され、ポリネシア市民の間から大っぴらに核実験反対の声が挙がり始めました。(↑)

7/1. 国際的なNGOからの支援も大きな力になりました。なかでもグリーンピースのオーストラリアとニュージーランド支部は、フランス核実験やその影響をめぐる情報を定期的に伝えました。また、日本の被爆者団体(とくに原水禁)が、ポリネシアで反核実験を担っている活動家を1970年代半ばから原水禁大会に招待するようになりました。(↑)

8/1. 1985年に起きた、フランス防諜機関によるグリーンピースの船「虹の戦士号」爆破事件は、フランス国内の世論やマスコミを目覚めさせただけでなく、ヨーロッパ全体でフランス核実験に反対するNGO活動を活発にするきっかけになりました。(↑)

8/2. 1990年代に入ると、こうしたヨーロッパのNGOネットワークは、ポリネシアの反核実験勢力の支援に乗り出しました。(↑)

8/3. 1990年にはタヒチの独立と持続的発展をめざすNGO「ヒチ・タウ」が結成され、太平洋のNGO連合PIANGO(NGO太平洋島嶼連合)との交流も始まりました。(↑)

9/1-3. こうしてヒチ・タウ、PIANGO、ヨーロッパのNGO、世界教会協議会のネットワークが生まれ、核実験をめぐる定期刊行物や書籍の出版、シンポジウムがヨーロッパや太平洋各地で行われるようになりました。(↑)

10/1. ミッテランによるフランス核実験のモラトリアムは、この運動の最初の成果と言えます。(↑)

10/2. また、フランスの核実験モラトリアムに続いて、核保有国の外交ルートやグリーンピースなど国際NGOと連携して、「包括的核実験禁止条約」(CTBT)の実現に向けた活動も行いました。(↑)

11/1-2. 1995年、シラク大統領による核実験再開は、世界中の反核実験運動に火を付けました。(↑)

11/3. ポリネシアでも1995年7月に大規模なデモが行われ、とくに日本から著名な政治家が多数参加しました。(↑)

12/1. 1995年9月には、パペエテで大きな暴動も起きました。フランス政府は、あくまで予定していた核実験をすべて強行し、計画が終了した1996年2月にフランス核実験の全面的終結を宣言するとともに、モルロア、ファンガタウファの核実験場の閉鎖を決めました。

核実験終結後、ヒチ・タウとポリネシアのプロテスタント教会は、共同でポリネシアの元核実験労働者を対象とした大規模な調査を行いました(資金は教会が支出)。(↑)

12/2. その成果は1997年に『モルロアと私たち』と題する報告書として発表され、フランス語、英語、ドイツ語、タヒチ語の各版が出版されました。(↑)

12/3. また、原水禁の資金援助で、タヒチ語版も実現しました。フランス語が必ずしも得意でない島民が多数いるため、タヒチ語で労働者の証言を読めるようになったことには大きな意義がありました。(↑)

13/1. この調査結果を受け、またこれにフランス本国の元核実験従事者も加わり、フランス核実験の健康被害の調査が続けられました。1996年にはB.バリオ著『フランス核実験1960~1996年』が出版されたほか、99年にはパリの国民議会で核実験の健康と環境への影響をめぐるシンポジウムが行われました。(↑)

13/2. 2001年7月には、フランス核実験被害者が、フランスで「元核実験従事者協会(AVEN)」を、ポリネシアで「モルロアと私たち協会(Moruroa e tatou)」を結成。内外で核実験被害者の闘いを支援する活動を始めました。(↑)

14/1-2.これらの被害者団体の最初の活動は、フランス議会への働きかけでした。01年10月には、ポリネシアの被害者代表がパリの上院を訪れ、2002年1月にAVENとともに「核実験と健康」と題したシンポジウムを開くことで合意しました。(↑)

14/3. 同時に、緑の党や社会党の国会議員とも会合を持ち、2002年1月17日に核実験の健康・環境影響に関する初の議員立法法案を提出することになりました。これに続いて、社会党、共産党、さらには与党の保守政党(UMPなど)から、計18件の法案が提出されました。

15/1-2. 被害者団体のもうひとつの活動の柱は、裁判闘争でした。2003年以降、健康被害への補償を求める数百件の訴訟が提訴され、2009年現在、約30件の勝訴が確定しています(おもに文民と民間人)。しかし、裁判の途中で亡くなる被害者も少なくありません。また、フランスでは軍人と文民(民間人)で提訴先や手続きが異なるため、核実験をめぐる裁判闘争は非常に困難なのが実状です。(↑)

16/1-2. 2002年には「広島フランス核実験被害者国際会議」が開かれ、フランス本国、ポリネシア、アルジェリアの被害者代表が、広島という象徴的な街で、初めて一堂に会し、被害者の権利を回復するために力を合わせる基盤ができました。(↑)

17/1. ポリネシアの被害者にとって大きな力になったのは、2004年に反核独立運動に長年携わってきたオスカー・テマル氏がポリネシア自治政府の大統領に選出されたことでした(ポリネシア議会による間接選挙)。

テマル政権の下、ポリネシア議会は、05年に「核実験調査委員会」を設置し、B. バリオ仏核兵器監視協会代表を委員長に任命しました。同委員会は2006年に報告書を発表し、「核実験被害追跡調査指針協議会」という正式な政府機関として引き継がれました(同じくB. バリオが議長に就任)。(↑)

17/2. 06年7月には、パペエテでポリネシア政府主催による「核実験被害国際シンポジウム」が行われました。(↑)

17/3. またこの時、太平洋での核爆弾と核実験の被害者すべてを記憶に留めるための記念碑がテマル大統領の手で除幕されました。(↑)

17/4. 各国のマスコミがフランス核実験被害者の運動を報道し、ヒバクシャの国際的な連帯の輪の中にあることが、被害者の運動を支える大きな力になっています。(↑)

18/1. ポリネシアでの動きに触発される形で、アルジェリア政府もサハラ砂漠でのフランス核実験についての情報開示をフランス政府に要求しています。アルジェリア政府は、2007年2月に核実験被害に関する国際会議を開催。原水禁をはじめ、モルロアと私たち協会、AVENなど世界の被害者団体が参加し、各国のマスコミが報道しました。(↑)

18/2-3. フランス核実験の真実を追究するドキュメンタリー映画が、アルジェリア人の手で制作され、フランス国内でも封切られました。(↑)

19/1-3. テレビ局も、フランス核実験被害者の報道番組を多数制作し、話題になるようになりました。(↑)

20/1. これまで、緑の党、共産党、社会党など、フランスの与野党全党の有志議員が、フランス核実験被害者補償法案を提出してきました。(↑)

20/2. フランス国防省は08年11月、被害者運動の要求を入れた議員立法法案を封じ込める形で独自の「核実験被害者補償法案」を提出しました。しかし、残念ながら、この法案は被害者の要求からは掛け離れた不充分な内容です。

まず、被害者の認定の裁量権がすべて国防省の手に握られることになっています。また、補償制度から被害者団体が完全に排除された形になっています。さらに、補償の対象となる被害者の枠と地理的な条件があまりにも狭く設定されているために、アルジェリアやポリネシアで核実験の放射能を受けた一般住民が補償を受けられる可能性が非常に限られています。アルジェリアやポリネシアの環境中に残存している大量の放射能についても、完全に議論の埒外に置かれたままです。(↑)

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このように、フランス核実験被害者全体の真実と正義を求める運動は、今なお目標達成からはほど遠い状態なのです。私たちは、今後とも一歩一歩、息の長い闘いを続けて行かねばなりません。

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