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2003.2

マリ‐テレーズ・ダニエルソンさん逝く

真下俊樹 (紛争平和資料研究センター所長ブリュノ・バリオ氏の追悼文を参考にしました。)

10年以上前ですが、『モルロア』訳者の淵脇さん宅で昼食を共にした想い出がよみがえります。昨年7月に奥村・木原両氏とタヒチで行われた「モルロア・エ・タトゥ協会」主催による核実験被害者の集会に参加したときは、日本からの参加者の発言に何度もうなずき、集会後に「来てくださってほんとうにありがとう」とお礼を言いに来てくれました。握手する手の優しいぬくもりと、「ビズゥ」をくれたときの頬の柔らかさが甦ってきます。
モルロアと日本をつなぐ絆の最初の種を播いてくれたマリ‐テレーズのご冥福を心からお祈りするとともに、彼女の播いた種を護り育てていく責任を改めて痛感します。


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太平洋での核実験に反対する闘いを世界に伝える声として生涯を捧げ、日本でも『モルロア コン・ティキ号がたどりついた死の環礁』(淵脇耕一・訳、アンヴィエル)で知られるマリ‐テレーズ・ダニエルソンさんが2003年2月6日、タヒチで亡くなりました。

1924年、フランス・ヴォージュ県ルミールモンで、地場産業である織物の工場を経営していたサイエイ家に生まれる。ペルー・リマのフランス大使館で働いていた1947年に、アマゾン探検を終え、「コン・ティキ号」による太平洋横断民俗学研究の準備をしていたベンクト・ダニエルソンに会い、結婚。以後、ベンクトと太平洋の民俗学研究をともにした。

1949〜51年に、コン・ティキ号がたどり着いた島であるツアモツ諸島のラロイア島で、住民と同じ質素な生活を送る。

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1953年、ふたりはタヒチの、モーレア島が目の前に見えるパエア地域に移り住み、ベンクトは地域の「知恵袋」となり、マリ‐テレーズは「魂と活動源」として地域に根付いた。一人娘のマルイアはここで人生の最良の時を過ごしたが1966年7月2日に始まったフランス核実験の死の灰の降るなかで、短い一生を終えた(放射能の影響でなかったと誰が言えよう?)。

美しい島々に放射能の雲をもたらす核の狂気に反対するベンクトとマリ‐テレーズの活動は、まさに死の直前まで続いた。核実験に反対しながらも、宗主国フランスの国家の論理を前に為す術のなかったポリネシア人議員(ジョン・テアリキ、アンリ・ブヴィエ、フランシス/ライザ・サンフォード、オスカー・テマルなど)に代わって、マリ‐テレーズはポリネシア住民のスポークスマンとしてデモに参加し、世界のマスコミを通して語りかけ、世界からポリネシアに集まる反核市民の寝泊まりのために自分たちの家を開放した。

また、「平和と自由を求めるポリネシア女性同盟」会長として、中国(北京)、東チモール(ディリ)、オーストラリア、ニュージーランド、アメリカ、ヨーロッパ各国を精力的に旅し、世界中で反核を訴えた。ゴルバチョフの招きでモスクワを訪問したこともある。

1991年には「もう一つのノーベル賞」としても知られる「ライト・ライブリフッド賞」を夫妻で受賞。1997年のベンクト他界後も、元核実験労働者とその家族の闘いを支援し続けた。2001年7月の元核実験場労働者のグループ「モルロア・エ・タトゥ協会」設立集会のときも、2002年1月のパリ上院での集会のときも、また2002年7月20日のモルロア・エ・タトゥ協会の大集会でも、2002年10月にストラスブールで行われた「欧州太平洋連帯セミナー」でも、いつもマリ‐テレーズの姿があった。

ニュージーランドで行われた「平和と自由を求める女性同盟」の会議からタヒチに帰って間もない2002年12月初め、マリ‐テレーズは脳溢血に倒れ、2003年2月6日、50年間にわたって生活と憤りと希望を分かち合ってきたたくさんのポリネシアの仲間たちに見守られながら、その反核と平和に捧げた生涯を静かに閉じた。