2003年11月6日
米国最大の草の根平和グループ、ピース・アクションの学生ネットワークSPANが組織するイベントに招かれ、ヒバクシャがスピーチ・ツアーを行います。
9.11の残された家族たちの平和グループ、「ピースフル・トゥモローズ」や、退役軍人の平和グループとともに、米国東海岸の各地大学や高校で講演会をひらき、戦争やテロリズムからの生存者の経験について語り合い、国際紛争解決へのもうひとつの道を探ります。
全米最大の平和・軍縮運動団体で、全米に百以上の支部があり、76,000人の会員を持つ。1957年に「セイン」(核政策委員会)
として誕生、さらに87年に「フリーズ」(核兵器凍結キャンペーン、1980年より活動)という草の根グループと統合、93年からピースアクションの名前で活動。核兵器開発に反対し、報復戦争・イラク攻撃反対の大規模なデモ、非暴力直接行動など数多く取り組んできた。
NHKのドキュメンタリー「9・11テロ 戦争反対を訴えた遺族たち」(放送文化基金賞)でもとりあげられた、米同時多発テロの遺族の中で報復攻撃反対の人たち
長崎市浜町で被爆、家族を失い、独りで様々な苦労を乗り越えてきた。
1922年1月27日生まれ。
1939年一家で長崎へ。
1945年8月9日爆心地から2kmで被爆、市街地のデパートから山の中へ逃げていた。10日、浦上がやられたことを初めて聞き、山里町の自宅へ帰る。父母は真黒焦げの死体で横たわり、弟妹は行方不明。焼け跡に原形をとどめていたのは井戸と水槽だけだった。死体ともに地面で寝て暮らす。17日遺骨を胸に長崎を去る。下痢、嘔吐、高熱のため福岡市九大付属病院に入院、食糧事情のため田舎で療養。
爆心地から、山手の方へあがったところ、ちょうど爆心地から350mのところが家だった。だから、弟と妹の死骸を歩いて探した。
戦後20年間は、被爆者を隠して生活していた。被爆者に対する恩典があると何があろうと、知らん顔やった。手帳を持っていることさえ、言わなかった。
1963年全身の皮膚が黒変、兵庫県立病院に入院。
1982年6月、第二回国連軍縮特別総会のためにニューヨークへ。ロスアラモスの核研究所、ハワイなどをまわる。
1986年1月から9月、10キロやせ、脱水症状に。入退院を繰り返し、8月に両眼の手術。ヒバクシャとして放射能の恐ろしさに目覚め、反核草の根運動の証言者としてあちこちの学校で体験を語り続けている。
(2003年11月9日〜11月20日)
11月 9日 日 − 山科、阿部 NY着 車でモンクレアに移動(1時間)同地2泊
10日 月 − 9:00−集会(モンクレア高校、ニュージャージー)
山科さんは10時から参加(車で10分)
参加スピーカー:ドーン・ピ−ターソン(ピースフル・トゥモローズ、以下PT)
デイビッド・クライン(平和のための退役軍人たち、以下VP)
11日 火 − 朝: SPANスタッフ、プリンストン出発
昼: ベテランズ・デ−のイベントに参加
フィラデルフィア、AFSC事務所(アメリカ・フレンズ奉仕団 クェーカー系の組織)
16:00−18:30 集会
参加スピーカー:ジョン・グラント(VP)、
ボブ・マッキルヴェイン(PT)
泊:フィラデルフィア、日系米人宅(予定)
12日 水 − 朝: ニューヨークに向かう
12:00−集会(POB-JFK高校、600人 ロングアイランド)
参加スピーカー:ベン・チッティー(VP)、
ドーン・ピ−ターソン(PT)
18:00−集会(ロングアイランド大学 ブルックリン)
参加スピーカー:ミラン・ライ(作家)、
ヴァレリー・ルチェニコウスカ(PT)
泊: ニューヨーク
13日 木 − 朝: 車でメリーランドへ
16:30−集会(タウソン大学 メリーランド)
参加スピーカー:エレン・バーフィールド(VP)、
ボブ・マッキルヴェイン(PT)
泊: ワシントンDC 以降6日間
14日 金 − 休み
15日 土 − 休み
16日 日 − 休み
17日 月 − 午後早めまで休み
11月17日 月 − 午後遅く:集会(アメリカン大学 ワシントンDC)
19:00−集会(シーザー・ロドニー高校 デラウェア)
参加スピーカー:ピーター・モラン(VP)、
ボブ・マッキルヴェイン(PT)
18日 火 16:00−集会 (ジョージタウン大学 ワシントンDC)
参加スピーカー:パトリック・マッキャン(VP)、
ボブ・マッキルヴェイン(PT)
11月 19日 水 − 米国発 11月 20日 木 − 日本着
原水禁 03−5289−8224 gensuikin@jca.apc.org / list@gensuikin.org
米国現地でのコンタクト:SPAN "Real Face of War"Speaking Tour Tracy DiMambro: 301-565-4050 ext. 322
参考:昨年の池田さんのツアー http://www.gensuikin.org/news/tour.htm http://www.gensuikin.org/news/ikeda_nh.htm
「焼けこげた死体がいっぱいだった。死体はもう、炭よ!そやから、私が描いたのもそれや。もう真っ黒い炭なんよ。皮膚なんかないんよ!350mのところからやから。この着ている衣料も焼けるし、皮膚も焼けるし、人によってはね、もうお腹の腸も焼けてしもて腸がはみ出してしもたりね。
うちの両親は、まあ、私これを描くのがあれやったからね、こうして黒く塗って、ちょっと真っ黒な死体に見えるようになっているけど。もう、学校の標本室にあの解剖の人体がおいてあるけど、そういうのでも頬がこけて肉がついていない骨だけのやつがあるでしょ。それと同じやったもん。父や母の顔なんて、肉もなけりゃ、歯がむき出していて、目玉がもう焼けしもて、落ち込んで、くぼみがあるだけ。」
「父や母やとは見分けられるような死体じゃなかったよ。だけど、肉親であるからこそわかったのであって、はじめは通っていてもわからないで通り過ぎていっちゃったよ。そして、やっと見つけたのが、父と母やからね。」
「自分の焼け跡でもわからなかったもん。焼けてしもて、なんにもないんだから。
焼けたレンガと、焼けた瓦だけだからね。それで、全然わからなかったからね。
はじめは、ここに死体があるわ、ここに何があるわなんて思って通り過ぎちゃって。それで、やっぱり私の家はここだろうなあ、ここ!? それで、井戸が残っていたから。
「あら」と思って、そこに行って、そしてそこの敷地内に転がっている死体を見て、それでジーと見ていたら、「ああ、お父さんだ、お母さんだ」っていうことがわかって。」**
「原水禁大会で次々来る人の話を聞いたり何かしたからね、はじめにアメリカへは82 年に行ったんよ。だから、またいろんなことを知ったでしょ。勉強になったでそれで、ナバホ族の人たちのことからねえ、メキシコの国境線のあんな人たちからね、それから、いわゆる放射能実験したね、ニューメキシコ州のあんなところの人たちとの交流があったでしょ。それから、やっぱり放射能の恐ろしさを語らないかんと思って、被爆者として台湾もにも行きね、マレーシア、シンガポールへも行くようになった。中国に行ったときも、南京虐殺館に行ったときも、やはり、被爆者として行ったしね。」
「そして、地を這うようにして独りで行って、探しまわって国際会議に行ったところもね。独りで歩き回ってきていろんなことを調べて・・・。
だから、ほんと、「戦時教育」言うたらこれだけの視野やった。狭かったのよ。それが目覚めて。・・・広くと思ってね。同じ一生でしょ。なんやか知った方が得やと思うから、こういうことをやってんねん。」**
**発言の引用は、京都精華大学の長澤智行さんによるインタビューから
http://www.kyoto-seika.ac.jp/jinbun/kankyo/class/2002/research/nagasawa.pdf